父のようにはなれない

 就職活動で地元の小さなデザイン事務所を受けた。事務所の経営者はこの土地のひとではなく、田舎暮らしに憧れて大阪からやってきた三十代の男のひとだった。「ぜひ地元の若者を採りたいと思っていた」ということでその場で内定をもらった。提示された待遇にも不満はなかったけど、僕がこの街に戻ることになったら東京にいる恋人は難色を示すかもしれないなと頭の片隅で思った。
 面接が済んだら橋本先生と会う約束をしている。橋本先生は僕が中学三年生だった頃に担任をしてくれた教師で、物静かだが教え方が分かりやすく面倒見も良かったから、生徒からも親たちからも人気が高かった。何よりこんな田舎には似つかわしくないほどスタイリッシュな外見をしていたから、女子生徒の中には憧れを抱く子も少なくはなかった。
 橋本先生が待ち合わせ場所に指定したのは駅前に昔からあり、化石のような顔をしたおじいさんが店主をしている古いバーだった。約束の時間よりも二十分早く僕はそこに着いたが、建て付けの悪いドアを開けて店内に入ると先生はもう席についていて、テーブルの上にはオレンジ色のお酒が入ったグラスと銀色の灰皿が置かれていた。数年ぶりに会う先生は僕の記憶にあるよりも少し白髪が増えていたが、すっと通った鼻梁や長く骨ばった手の指などは同性の僕から見ても綺麗だと感じる。いつか恋人とふたりで行った美術館に展示されていた西洋の彫刻を思い起こさせた。
「煙草を吸っても良い?」お久しぶりですと挨拶を交わし合ってから先生は僕に訊いた。もちろん良いですよ、僕も吸いますからと答えると、先生はジャケットのポケットから煙草を取り出しライターで火を点け薄い唇に咥えた。その数秒後に最初の煙を吐き出すとまるで悪戯がみつかった子どものような微笑みを浮かべながら「娘には内緒にしといて」と言った。
 東京の大学に籍を置いている僕は三歳年下の後輩と恋人同士の関係にあり彼女は先生の娘だ。

「うちのお父さんさ。格好いいでしょう」
 付き合いはじめて間もない頃。彼女は僕の部屋で缶ビールやら缶チューハイやらを飲みながら僕にそう話した。
「娘のあたしがいうのも変だけど顔はめちゃめちゃ綺麗だし背も高いしそろそろ還暦なのに着る服だっていつでもキマっていてさ。中学生にもなれば周りの同級生たちは来る日も来る日も自分の親の悪口とか不平不満とか言ってたもんだけど、あたしはそういうの何もなかったんだよ。みんなだってあたしのお父さんのことはもちろん知っていて、お父さんが担任するクラスの子とかも居たから、橋本のお父さんは素敵で羨ましいなっていつも言われていて鼻が高かったよ」
 この日の彼女はいつも以上に飲むペースが早くて、この時点でもう、そうとう酔っていた。ねえこのぐらいにしておいたら? と僕がたしなめても、全然聞く耳を持たず、新しい缶を開けては喉の奥に流していた。
「だけど良いことばかりだったかっていうとそういうわけでもなくてね。小さい街だしお父さんのことを知らないひとなんてあんまりいないわけじゃん。だから子どもの頃からどこに行ってもね、あのひとの娘だからきっと美人になるねとか賢い優しい綺麗な女性になるねとかそういうことを必ず言われるのよ。そりゃあ最初のうちはあたしだって自分は将来美人になれるんだ楽しみだなって素直に思ってたけど十代にもなるとだんだん現実見えてきちゃうからさぁ。あたしなんて、美人とか可愛いとか言ってもらえることもまぁ時々はあるけど結局それって毎朝時間かけて化粧して髪とか肌の手入れにも手間暇かけてお金もかけて何冊も雑誌買って流行確かめて洋服なんかも凄く吟味して、そこまやってようやく、時々美人に分類してもらえるぐらいなんだよ。でも世の中には実際、そんなに色々やらないでも綺麗なひとっているじゃん。血反吐吐くほど頑張らなくても最初っから色々要領良くやれちゃうひとっているじゃん。あのお父さんの娘だっていうことであたしに期待されてた水準ってきっとそういう感じで、だから今はそれと現実の自分とのギャップがけっこうしんどいのよ」
 ここまで喋った時点でもう、彼女はかなり酔ってしまっていて、それなのに手に持っている缶の中に残っていたチューハイを全部飲み干してから、ああ、あー、と呻きながら床に仰向けになった。
「そうちょうど去年の今頃。高校三年の一学期の半ば頃なんだけど下校途中にさあ横断歩道で立ち止まってたら知らない女が声かけてきたのね。外見は四十歳ぐらいに見えたけど実際はもっと年上だったかも。そいつがあたしのことすごいじろじろ見てきてから『あなた橋本先生の娘?』って訊いてくるんであたしが頷いたら『ふーん』って馬鹿にしたみたいにあいつ笑いやがって、それからさぁ、『私ならもっと綺麗な子を産めたわ』なんて。ええー、あたしはそれから自分が何を言われたのか分かるまでちょっと時間が要ってそのあいだに信号は青に変わって女はどこかに行ってしまっていて仕方がないからそのままとぼとぼ歩いて家まで帰ってお母さんにただいまって言ってから自分の部屋でひとりになったんだけど、ああ、あの時ぐらい悔しかったことってなくって、自分さっきめちゃめちゃ悔しいこと言われたんだって改めて理解してグッチャグチャに泣いてご飯も食べられなくて眠れもしなくてその次の朝にね、あたしお父さんに、この街を出て東京の大学に行きたいって言ったの。あたしのことも父のことも誰もらない場所に行きたかった。それなのに今あなたと付き合ってるけど」

 橋本先生も僕の前でずいぶんお酒を飲んだ。オレンジ色のお酒ばかりを五杯も六杯も飲み、灰皿の上には煙草がいっぱいになって、カウンターに立つ化石のような顔をした店主も、すこし心配そうに先生のことを見ていた。
「娘は私のことなんか言っていた?」と橋本先生が訊くので、自慢の父親だと言っていましたよと僕が答えると、彼は「本当?」と嬉しそうに笑って小さく首を傾げた。「でも実際には私はそんなに良い父親じゃあなくてね。教え子の前でこんなことをいうのも滑稽だけど。ほら、中学生ぐらいの女の子というのは、ある時期から急に自分の親、特に父親のことを、ものすごく不潔で悪いもののように言って嫌うようになるだろ? 私は中学校の先生として、そういう父娘の姿を私は二十代の頃から、何組も、そりゃあもう何組も見てきたわけだけどね。娘が生まれた時、ああ、この可愛い娘に、自分もいつかあんなふうに嫌われちゃうのかな、それはすごく嫌だな、怖いなと思ってしまってね。だからもう娘の前では、いつも格好つけることばっかり考えていたような父親だったんだよ。妻からはだいぶ笑われたけどねえ。『あなた、わたしにプロポーズした日だって、こんな良い服着てこなかったじゃない』なんてね」 

 東京に帰る新幹線の中で酔い覚ましにコーヒーを飲みながら僕は、彼女とはじめて話した日のことを思い出した。それは彼女が入学してきて間もない時期のことで、場所は学内の喫煙所で、周囲に植えられた桜の木には花びらがまだ少し残っていた。喫煙所にはその時ほかに誰もいなくて、僕はひとりで煙草を吸っていたのだけど、後からふらっとやって来た彼女が、「一本くれませんか」と声を掛けてきた。この時はまだ僕は彼女が先生の娘だなんてちっとも気づかなかったし、彼女の方も眼の前の男が自分の父親の教え子だなんて知る由もなかった。僕は言われた通りに煙草を一本手渡して、火を点けてやったのだが、彼女は煙を吸い込むとすぐに激しく咳き込み、そのまま煙草を地面に落としてしまった。聞けば煙草を吸うのはその日が初めてだという。なんで吸おうと思ったのかと僕が訊くと、「悪い子になりたくて」と彼女はちょっと不敵に笑って答えた。でもそれから少し話し、僕が先生の教え子だと思うと、彼女は酷く驚き、それから大慌てで僕に言ったのだ。「お願いだからお父さんには内緒にしておいて」と。

 ああ、なんだ。よく似た親子じゃないか。

Photo By @manimanium




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