昨日の羊

 広い草原がありました。広い草原には、たくさんの動物が住んでいました。あるとき草原に大きな雲が来ました。東の空から、どんより暗く大きな雲がこちらにやって来ました。暗く大きな雲は、草原に暮らす動物たちにとって、はじめて見るものでした。雲に飲み込まれたらば[きのう]というものになってしまうのだと誰かが言い出しました。するとまた別の誰かが[きのう]になることはとても恐ろしいことだと、噂を流しました。[きのう]について、それ以上知っている動物は誰もいませんでした。草原に住む動物たちは誰もかれもが、雲から逃げて西へ向かいました。

 広い草原に羊が一頭いました。羊は脚を怪我して歩けませんでした。群れの仲間がいましたが、怪我した羊を一頭置いて西へと向かいました。他の動物はあらかた逃げ終わったので、羊は一頭ぽつんと、草原に佇んでいました。黒く大きな雲はゆっくり、じわじわ、羊の居る場所へと近づいてきました。けれど羊は、もう逃げようとしません。東の方から、遅れて逃げてきた一頭の年老いた象が、羊に話しかけます。
「お前はそのまま[きのう]になるのかい」
 訊かれて羊は、メェ、と頷きます。
「そうかい私は、年寄りだけれど、[きのう]になりたくないよ」
 年老いた象はそう言い、またどすどすと草原を踏みしめ、西へと逃げていきます。羊はそれをぽつんと見送ります。

 広い草原に羊が一頭いました。どんより暗く大きな雲がこちらにやってきましたが羊は諦めていました。羊は脚を怪我して立つことも逃げることもできませんでした。羊は諦めていました。東の方から、逃げ遅れてきた一頭のシマウマの子どもが、羊に話しかけます。
「あなたはそうして[きのう]になるのが本当に怖くはないの?」
 訊かれて羊は、メェ、と頭を振ります。
「そうだねぼくも[きのう]になるのが怖いよ。まだ子どもだから[きのう]になりたくないよ」
 シマウマの子どもはそう言い、またすたすたと一生懸命走って、西へと逃げていきます。羊はそれをぽつんと見送ります。

 広い草原に羊が一頭いました。どんよりと暗く大きな雲はいよいよ、広い草原をまるごと飲みこもうとしていました。羊は諦めていました。どうしてだか眠くなってきたので、三度あくびをしました。西の方から、とぼとぼと歩いてきた、一頭のくたびれた狼が羊の隣に座って、羊に話しかけます。
「おれはもう、他の動物を殺して食べたくないから、あんたと一緒に[きのう]になろうと思うよ」
 言われて羊は、メェ、と小さく鳴きます。くたびれた狼の口には、けれども立派な、するどい牙が見えます。それを見て羊は、急に[きのう]になるのを、とても悲しく、怖いことのように思いました。この狼なら自分を助けてくれる気がしました。暗く大きな雲が頭上にやって来ました。

 広い草原がありました。けれどあるとき草原に大きな雲が来ました。東の空から、どんより暗く大きな雲がこちらにやってきました。雲に覆われると[きのう]になってしまうと聞き、動物たちは西へと避難しました。脚を怪我した一頭の羊と、食欲のない一頭の狼だけ、草原に残っていました。広い草原は黒い雲に覆われ[きのう]になりました。

 雲が通り過ぎて、元通りの明るい天気になると、避難していた動物たちは少しづつ草原に帰って来ました。白い骨になった羊が、横たわっていました。狼の姿は、どこにも、見当たりませんでした。








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