風船が降る町

 おれたちの町に風船が降り始めた。綿菓子みたいに白い風船が透き通るように晴れた真っ青の空から無数に降って来るのだ。こんな天気が数日前からずっと続いている。
 風船というのはふつう空から地上に降ってきたりはしない。風船というのは地上から空へと昇っていくものだ。だから風船が降るようになって以来この町ではあらゆるものの時間が逆に流れ始めた。年寄りばかりの住民たちは徐々に若返った。死んだはずの人間が何事もなかったかのような顔をして家に帰って来た。ずいぶん昔に枯れた古木が真っ赤な実をつけた。西から登った太陽が東に沈んでいった。

 風船が降る前。
 おれたちの町は終わる寸前だった。
 昔はそれは立派な町だった。鉱山からたくさんの金が採れていた時代はすごく栄えていたのだ。町の中央には巨大で豪勢な金時計が置かれている。それはこの町の繁栄を象徴する時計だった。
 だけど三十年ほど前に金が採れなくなるとこの町は急速に廃れた。ほとんどの若者が町を後にした。出て行くことさえままならない年寄り連中と一部の変わり者だけが残る町になった。やがて金時計も壊れて動きを止めた。壊れた時計を今さら修理しようなどと考える者は誰も居なかった。この町の行く末について誰もがすっかり諦め切っていたのだ。この町の未来はこの町の住民によって見限られてしまった。
 この町は完全な袋小路に居た。

 けれど数日前。そんな行き止まりの町に不思議なことが起こった。十年以上も壊れたままで放置されていた金時計が動き始めたのだ。それも通常の右回りではなく左回りにだ。時間を逆向きに刻み始めたのだ。
 そしてその日から白い風船が空から降り出した。この町にあるあらゆるものが時を遡り始めた。  
 遡る早さにはそれぞれ違いがあった。危篤状態から健康な身体に戻った者が居た。腰の曲がった老婆がわずか一晩で少女の姿にまで戻ったケースもあった。おれはといえば老眼鏡を掛けなくても手元が見えるようになったぐらいだが確実に若返った。
 多少の戸惑いはあれど住民たちはこの不可解な出来事をおおむね歓迎している。もしもこのまま時間が戻り続ければ鉱山から再び金が出るかもしれないと期待する声さえある。町は昔の活気を取り戻しつつあった。
 
 家に帰ると娘が泣いていた。声を上げずに静かに泣いていた。
 娘の隣には娘婿が座っていた。娘婿は娘のことを一生懸命なだめていた。けれど娘が泣き止むことはなかった。
 金時計が逆向きに動き出して風船が空から降り始めた時からおれの娘はずっと泣いている。妊娠によって膨らんでいた腹が小さくなったからだ。おれも含めた年寄りたちが若返っていく速度に比べればずいぶん緩やかだが、娘の腹は日に日にしぼんでいる。あの風船が降り出さなければ今頃とっくに出産していたはずだ。 
 もしもこのまま風船が降り続けば娘の子どもは生まれてくることが出来ないかもしれない。
 いや。きっとそうなるだろう。

 翌日。おれは町外れにある丘の上に登った。地上で弾む風船たちに行く手を阻まれたが、搔き分けながら登った。
 この風船は町の外でも降っているのだろうか。それを確かめたかった。仮にこの現象がこの町の中だけで起きているのならば、今からでも娘夫婦を町の外に逃がせば、彼らの子どもも無事に生まれるんじゃないだろうか。そう考えたのだ。
 けれど無駄だった。丘の上から見渡す町の外側の景色は、降り積もった風船にすっかり覆われて、真冬の雪の日みたいに白く染まっていた。おれは息を呑み、その場で膝を追った。山を越えても、海を渡ってさえ、この風船から逃れることは出来ないだろうと感じた。
 
 夕刻。表通りはとても華やかだった。色とりどりの町明りがそこらじゅうに溢れ返る白い風船を幻想的に照らしていた。風船によって時間を遡り若さを取り戻した老人たちが子どものようにはしゃぎ回っていた。町中が浮かれていた。おれが子どもの頃に事故で死んだはずの女が生き返って踊っていた。仕事を失い酒に溺れていたはずの男が陽気に歌っていた。借金を背負って首を吊った友人が在りし日の姿でにこにこ笑っていた。そしておれ自身も身体が徐々に軽くなるのを感じる。
 疲れた頭でおれは考えた。
 風船が降りはじめる以前からこの町は行き詰っていたのだ。それを忘れてはいけない。こうなる前から未来なんかなかったじゃないか。このまま時を遡ることがこの町にとって最良なんじゃないだろうか。
 だけどそれでは娘夫婦に子どもは生まれてこない。

 娘は寂しがり屋だ。そして優しい子だ。多くの若者がこの町の未来を見限り、去っていった後も、娘は此処に残った。おれのことを置いて行けないからなんて生意気なことを言っていたが、おれは嬉しかった。
 娘婿は玩具職人だ。老人ばかりのこの町で、子どものための玩具を作り、それを売っている。この町の鉱山からはもう金を採ることが出来ないけど、代わりに玩具でこの町を有名にしたいと、おれに語ってくれた。生まれ育ったこの町のことを誰よりも真剣に考えている男だ。
 彼らには幸せに生きて欲しいと思う。彼らの幸せがこの町の未来だからだ。 

 真夜中。おれは中央広場に居た。町の繁栄のシンボルである金時計の前におれは立っていた。大きな袋を背中に背負っていた。
 中央広場では大勢の住民が金時計を囲んで輪になって踊っていた。冷たい空気と色とりどりの光の中で無数の風船が乱舞していた。
 華美な装飾が施された金時計の針は本来とは逆の方向に時を刻み続けている。
 おれは背負っていた袋を降ろした。袋の中には斧が入っていた。おれは斧を握った。それから斧を高く振り上げた。斧はずいぶん軽く感じられた。いや違う。斧が軽いのではない。風船によっておれ自身の身体が若返っているのだ。
 おれの周りで踊り狂う連中は誰もが幸せそうな表情をしていた。ひとつ残らず知っている顔だ。そしてその中には、先立ったはずのおれの妻も居た。親父やお袋も居た。一緒に踊ろう。そんな斧など捨てよう。彼らはおれの耳元にやって来てそう語りかけた。涙で視界が滲んだ。

 それでもおれは斧を振り下ろした。
 斧は金時計の文字盤の中心に食い込んで赤い火花を散らした。

 次の瞬間。地上を覆っていた無数の風船がふわりと宙に浮いた。
 それからあっという間に空に登っていった。やがて見えなくなった。金時計の針は動きを止めていた。

 おれは金時計に食い込んだ斧の柄を掴んだ。持ち上げようと試みたが、重くて持ち上げられない。
 辺りは静かだった。 








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