絶望的に私は幸せだ

 人間たちはこの森のことを魔女の森と呼ぶ。魔女の森には毒が満ちている。植物たちが毒の胞子を出しているからだ。この森の植物は天敵である人間から身を守るために毒を撒いているのだ。毒の胞子は非常に小さく軽い。まるでガスのように空気中を漂う。胞子を吸い続けた生き物は身体の内側からゆっくり蝕まれる。そして死に至る。もしも人間がこの森の中に留まり続けた場合、一週間で身体が痺れ始め、十日も経たずに命を落とすという。だからこの森で生きていけるのは、植物や菌類を除けば、毒への対応に成功した、僅かな虫や動物たちだけだ。
 私は人間だ。私は人間だけど魔女の森を歩いている。毒の胞子も当然吸っている。
 人間によって手入れされていないこの森では、無数の木々が分厚い樹葉を茂らせているので、太陽の光がまったく届かない。薄青色にぼんやり光るコケやキノコが貴重な光源だ。昼も夜もなく常に薄暗いので、正確な日数を把握することは出来ないけど、私がこの森に来てから、三日か四日は既に過ぎたはずだ。
 今のところはまだ、私の身体に毒の影響は出ていないのだけど、時間の問題だろう。ここに留まり続ける限り、あと数日で私はきっと命を落とすはずだ。
 森の奥には小川が流れている。川の水にも毒が混じっている。川沿いに歩くと煉瓦造りの小屋に辿り着く。小屋の窓には明かりが灯っている。この小屋の中には魔女が住んでいる。
 扉を開いて私は小屋に入った。魔女は椅子に腰掛けて果物の皮剥きをしていた。魔女は私の姿に気付くと顔をこちらに向け、笑窪を作って笑った。
 魔女はまるで人間の少女みたいな姿形をしている。だけど恐らく人間ではない何かなのだろう。何故なら彼女はこの森の中でずっと暮らしているのに、毒の症状が一切出ないからだ。私はこの森に足を踏み入れた夜から、この魔女の小屋で寝泊まりをしている。
 魔女は、木の葉で造った皿の上に剥いた果物を盛り付け、それを私に勧めた。胞子の毒はもちろん果物にも含まれているけど、私は構わずそれを口にした。果物は柔らかく熟していた。すごく甘かった。
 空腹を満たすと眠気が訪れた。私と魔女はベッドに横たわった。私たちは狭いベッドの上でぎゅっと身を寄せ合った。魔女は体温が高くて、肌に触れているだけでも、とても心地良かった。私は幸福な気持ちになり、すぐに眠りに落ちた。

 この森に来る前の私はひとりぼっちだった。狭い部屋の中にこもってひとりで暮らしていた。部屋にこもる前のことは何も覚えていない。時折どこかから段ボールに詰められた食料と水が配達されてきた。段ボールはいつも私が寝ている間に、部屋の扉の前に届けられていたので、配達員らしき人物と顔を合わせることは一回もなかった。
 部屋の中には硬いベッドと多くの本があった。私に出来ることは本を読むことぐらいしかなかった。本は私に多くの知識を与えた。魔女の森や毒の胞子のことも本で読んで覚えた。一般的な人間は、私のようにひとりぼっちではなく、家族や友人と一緒に暮らしているのだということを学んだ。部屋には電灯やランプの類がなかったので、夜になると本を読むことも出来なかった。だから日が落ちると同時に眠るのが日課だった。
 どうして私はひとりぼっちなんだろうか。部屋に遭った本をすべて読み終えた頃から、そんな疑問が私の頭を過るようになった。しかしどれだけ考えてもその疑問が解決することはなかった。たぶん私にも親は居たのだろうと考えることが増えた。だけど私は自分の親の顔とか声を思い出すことは出来ない。誰かに抱かれて眠った記憶というのが、私の中にはないのだ。人肌の温かさに包まれて眠ることが、私にとって唯一の憧れだった。
 そしていつからか、私は夜になっても上手く眠ることが出来なくなってしまった。どうやら不眠症という病に掛かったようだった。眠れないまま夜を過ごすのは何よりも苦しいと感じた。だから私は意を決して、あの部屋の外に出て行くことを決めた。自分以外の誰かの肌に触れれば、またうまく眠れるに違いないと考えたからだ。そうして部屋を後にした私は、間もなくして、森に迷い込んだ。そして魔女に出会った。

 魔女と一緒の暮らしを始めてから更に数日経った。
 魔女と一緒に森の赤を歩いた。森の散歩は私と魔女にとって楽しみのひとつだった。だけど小川に沿って歩いている最中、私は急に胸が苦しくなり、その場にうずくまって、激しく咳き込んだ。魔女は心配そうに眉をひそめながら、私の背中を優しくさすってくれた。
 私の咳が収まると、魔女は森の出口の方向を指差し、森から出て行くようにと、私を促した。 けれど私は首を横に振ってそれを断った。すると魔女は寂しげに微笑んだが、もうそれ以上、私を森から追い出そうとすることはなかった。
 小屋に戻った私と魔女は、いつも通りにベッドに横たわって、身体を寄せ合った。魔女はすぐに寝息を立て始めた。眠りに落ちた魔女は体温がさらに高くなって、私が今日までの人生で触れた他のどんなものより、幸せな触り心地があった。私は右手で魔女の頭を撫でた。右手の指先には弱い痺れを感じる。この身体が動かなくなって死んでしまうまで、もうそんなに、時間は残っていない。
 だけど今更この森を後にすることなど、今の私には出来るはずがなかった。何故なら私が、ずっと欲しくてやまなかったものが、ここには何もかもあるのだ。もうすぐ私は死んでしまうけど、そんなことは、些細なことだと思える。だって私はすごく幸せだからだ。
 絶望的に私は幸せなのだ。








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