だってあなたは不幸の方しか見ない

 三ヶ月ぶりに帰宅した船乗りの夫からは海の匂いがした。ついこのあいだ五歳の誕生日を迎えたばかりの息子はそんな夫の傍からなかなか離れずに、夫が旅した幾つもの港町やそこで出会ったひとびとや目にした風景のことなどに関する話を興奮した様子でいつまでも聞きたがった。そんな夫と息子のやり取りをわたしは少し引いたところから眺めては笑みを浮かべて過ごした。

 夫と出会ったばかりの頃。わたしは彼に自分の父親のことを話した。「父を撃ったのはとなり町で暮らしていた身寄りのない若い男でした。それは真夜中のことで男は当時わたしたちが暮らしていた教会の礼拝堂を訪れて父の胸を撃つと、それからすぐに自分の頭を撃ち抜き、死んでしまったそうです。わたしは眠っていたのでその出来事について知ったのは朝が来てからでしたが、わたしに説明する母が涙で顔をぐしゃぐしゃに汚しており今にも狂い出しそうだったことをはっきり覚えています。父を撃った男はそれよりも半年ほど前に仕事をクビになり財産はほとんどなく食べるものにも困っていたのか痩せ細っていたと後から聞きましたが、どうして撃たれたのが父でなければならなかったのかは未だに分かりません。ひとつ分かるのは父は誰からも恨まれるような人間ではなかったということです。なぜなら父は教会の神父としていつもいつもいつも多くのひとを救ってきたような人物だったからです。彼に私欲などなく、街に住む誰もが父のことを愛して尊敬していました。しばらくのあいだ町中が父の死を悼みました。わたしは途方に暮れ、ただただ悲しく思い、それからしばらく泣いて過ごしていました――」そんなわたしの話を聞き終えると夫は、何をいうよりも先にわたしの肩を控えめな手付きで優しくなでてくれて、わたしはそれをとてもうれしく思いきっとこのひとと結婚するのだろうと心に決めたのだった。
 けれどあの時した話の中で、わたしは夫に、ひとつ嘘をついた。

 夜になると夫は寝室で息子を寝かしつけた。息子の興奮状態はベッドに入ってからも続いていたのだが夫が優しく声を掛け続けるうちに気持ちがおちついてきたのか眠りに落ちていった。規則正しい寝息が聞こえ始めてからも夫はしばらくのあいだ息子の寝顔を愛おしそう眺めており時折頭を撫でたり頬に指で触れたりしていた。その様子をわたしも傍で見ていたのだけどやがて立ち上がり、ひとりでキッチンに移動し、冷蔵庫の中から缶のお酒をひとつ取り出し飲んだ。

 撃たれて死んだ父にまつわることでわたしは夫だけでなく出会うすべての人に対して嘘を吐き続けてきた。わたしは喜んだのだ。父が死んだことを聞かされたあの朝わたしの頭は真っ白になり数十秒ほどのあいだ目の前の母が何を言っているのか理解できなかったが、事態を把握すると、やった、と、心の中で小さく呟いていたのだ。これは今まで誰にも話したことがないのだけど、みんなに愛されていた父が理不尽で悲劇的な死を遂げたことでわたしは、きっと周囲の同情を買い哀れんでもらえるに違いないと、父の死という不幸な境遇にも負けずたくましく生きればきっとみんなに愛してもらえるだろうと、心の奥底でそう考え、そしてほくそ笑んでいたのだ。ただ一方でそんな考えを抱いてしまう自分に戸惑いを感じもした。あの素晴らしい父が死んだことを悲しめないどころか喜びさえ覚えている自分は邪悪な子どもではないのかと、誰にも相談することができずひとりで思い悩みもした。

 キッチンでひとりでお酒を飲んでいると夫がやって来た。夫はわたしと同じように冷蔵庫の中から感のお酒を一本取り出してプルトップキャップを開けた。わたしたちはお互いの缶を軽くぶつけ合った。「ねえどうして泣いているんだい」と夫はわたしに尋ね、その質問によってわたしははじめて自分の頬に涙が伝っているのだということに気づいた。どうしてだろうわたしもわからない。「君は今日ずっと悲しそうだったよ」夫からは海の匂いがした。

「わたしの父は教会の神父として街のほとんどすべてのひとから深く愛されていました。街には貧しかったり病気だったりお腹をすかせていたりで困っているひとや救いを必要としているひとが常にいましたから、そういうひとを救うためにいつも父は街中を走り回っていました。ほんとうにいつもです。父を慕う多くのひとたちと比べれはわたしは恵まれていました。誰にでも愛される父の娘で生活に困ることはなく身体も丈夫でした。父はいつでも恵まれないひとの味方でしたから、その手がわたしに向けられた記憶はほとんどありません。――母はよく言いました。『お父さんは私たちよりも恵まれないひとをいつも助けている。私たちは恵まれているから、少しぐらい寂しくても我慢しましょうね』と。だからなのでしょう。父が死んだ時にわたしは喜びました。これでわたしも恵まれないひとの一員になれたと。これでわたしも愛されるはずだと」

 泣いているわたしを夫は抱き寄せた。最初に出会ったときと同じようにわたしの方を控えめな手付きで撫で、それから先ほど息子にしていたようにわたしの頭や頬にも触れてくれた。海の匂いの中でわたしはあらためて確認する。わたしはこれがずっと欲しかったのだ。どんな嘘をついても。たとえ不幸になっても。
 

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