卒業式の翌日の昼下がりに兄のもとを訪ねた。兄に会うのは五年ぶりだった。携帯電話のメッセージで送られてきた兄の現在の住所は意外なことにぼくの通っていた高校から近い場所だった。ぼくがクラスメートや天文部の仲間たちと何度も買い食いをしたコンビニ。そのすぐ横にある小さなアパートの二◯二号室が兄の住まいだった。予め伝えられていた通り玄関の扉の鍵は開いていた。室内にはぼくの記憶にあるよりも更に痩せて髪も伸びた兄の姿があり、ベッドと冷蔵庫があり、台所には煙草の箱と灰皿が置かれていた。それ以外には何も見当たらなかった。大きな窓からは三月の日差しが差し込んでおり室内の空間を明るく満たしていた。
ぼくと兄は十三年も一緒に暮らしていた。十三年というのはぼくが生まれてから兄が高校を卒業して実家を出るまでの期間だ。にもかかわらず兄はぼくにとっていつまで経っても未知の存在だった。兄は何でも出来た。勉強も得意だった。喧嘩も強かった。難しい本をいつも読んでいた。ぼくは五歳だかの時に一冊の本を兄から譲り受けた。子ども向けに書かれた宇宙図鑑だった。兄はぼくとも両親ともあまり口を利くことがそれほど多くなかった。小学校に入学したばかりの頃、ぼくは「あいつの弟だから」という理由で上級生から嫌がらせを受けた。親戚の大人たちはことあるごとに兄と比較し「お兄ちゃんとは違って素直ね」とぼくのことを褒めた。だけどそうやって褒められるたびにぼくは悔しく思った。
殺風景な部屋の中で焼いた焼きそばを食べた。焼きそばは冷蔵庫の中に残っていた材料を使って兄が作ってくれた。食器や調理器具はは台所の下の収納スペースに収められていたがやはり最低限のものだけしかなかった。どうしてこの部屋にはこんなにものが少ないんだ? 焼きそばを食べ終わるとぼくは兄に尋ねた。すると兄は、全部捨てたからだよと、表情ひとつ変えないままで答えた。
「あんなにたくさんのものを一度に捨てたのは初めてだった。はじめてのことなので楽しいかもしれないと少し期待していたのだけど特に楽しくはなかった」
ものを捨てたことで何か変化はあった? と、ぼくは続けて尋ねた。
「別に何も。あまり変わっていない。特に良くなったことはないし、悪くなったこともないな」
ぼくには夢がある。天文学者になり星々の研究をすることがそうだ。これは宇宙図鑑を兄から譲り受けた五歳の時からの夢だ。だからぼくは兄に対してずっと昔から深く感謝をしている。周囲がどんなに兄を悪く言おうと、ぼくは兄のことを大切に思っているのだ。
一方で兄がぼくのことをどう思っているかについては検討もつかなかった。この五年間。兄は一度も実家に姿を見せることがなかった。もしかしたら兄はぼくのことを嫌っているのではないか。その可能性がとても恐ろしかった。だから五年間、ぼくの方からも兄のことを訪ねることが出来ずに過ごしてきた。
けれどぼくはあと二週間でこの国を離れる。海外の大学に四年間通って天文学の勉強をするのだ。だからどうしても日本を離れる前に兄に会いたかった。兄のおかげで今の自分がある。そのことをきちんと伝えておきたかった。
五年ぶりの再開にもかかわらず会話は弾まなかった。兄は自分のことをあまり喋らなかった。ぼくが訊いたことには答えてくれたけどただそれだけだった。兄からぼくに投げかけてきた質問はひとつだけだった。換気扇の下で煙草に日を着けながら「お前はタバコを吸うか」とぼくに尋ねたのだ。ぼくは首を横に振って、吸わない、と答えた。兄は微かに笑った。
「ならその方がいい。煙草を覚えると煙草が必要になる。必要なものが多くなるのはあまり良くないことだ」
留学のことは結局話せなかった。話せることがなくなったところで、そろそろ帰るよと言い、ぼくは腰を上げた。「また来いよ」と、玄関で靴を履いているぼくの背中に向け、小さく低い声で、兄は呼びかけた。
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この作品は、昨年10月~11月にかけて、アパートメントさんで連載させていただいたものです。