あの場所まであと半日

 いつか地球に行こう。

 火星で生まれたわたしがそう決めたのは彼とはじめてふたりで出掛けた夜のことだった。彼は当時わたしが働いていたカフェの常連客で「いちど一緒に食事に行きませんか」と何度か誘われていたから、一度ぐらい付き合ってあげないと悪いなという気持ちで飲みに行ったんだ。彼は女性慣れしてなかったし口下手だったから自分で誘ってきたくせに飲みはじめてすぐ間が持たなくなってスマートフォンで昔の写真なんか見せてきたりして最悪だったんだけど、その時見せてくれた写真の中に一枚だけ、わたしの興味を惹いたものがあって、それは彼が二歳とか三歳の本当に幼かった頃の写真で、透き通るような青い空と、エメラルドグリーンの海をバックにして写っていたものだった。もちろんそんな景色は火星のどこにもない。訊いてみると「自分は地球の生まれなんです」と彼は答えてくれた。物心ついた頃にはもう火星に送られていたので地球の記憶は全然ないのだけど、地球の生まれなので、いつかお金をうんとためて地球に帰りたいんだと話した。それを聞いてわたしは、驚いて、一瞬で彼のことがすごく気になってしまって、それから気づいたらこう口走ってたんだ。わたしも一緒に行くって。

 それからわたしたちは恋人同士になった。お金をためていつか地球に行くことがふたりの夢になった。地球に行くのは簡単なことじゃあない。地球から火星へは今でも毎日たくさんのひとが送り込まれてくるけど、逆に火星から地球にいくのはすごく大変だ。何よりお金がかかる。ひとりぶんの片道切符を手に入れるだけでも火星の大学に三回入学して三回卒業するぐらいのお値段がするんだ。なんとか地球にたどり着いても火星育ちの人件費は安いし差別もそれなりにあるので暮らす上での苦労は少なくないって聞く。でも、それでも青い空とか、海とか、宇宙服無しで外を出歩ける生活なんかに対する強い憧れは、もうわたしにとって逆らえないほど強いものになってしまっていた。地球を目指すにあたって、わたしと彼はまず家賃を節約するためにふたりで住みはじめた。彼は探査機の整備する仕事を頑張っていたし、わたしもカフェの仕事と掛け持ちで夜間営業のバーで働くようになってちょっとずつだけど貯金を増やしていった。

 とはいえもちろん三六五日休まず働いていたわけじゃないよ。休みの日には一緒によく出掛けた。わたしも彼も騒がしいところはあんまり好きじゃなかったから、美術館とか博物館とかが多かったな。中でもいちばん多く訪れたのは科学博物館で、人間がまだ地球だけに住んでいた頃から歩んできた宇宙開発の歴史資料だとか、宇宙船の模型、地球の様子を撮影した写真なんかは、何度目にしても全然飽きなかった。

 カップルとしての相性も悪くなかったと思う。一緒に居て楽しかったし何より落ち着いた。彼は料理がほとんどできなかったけどわたしは部屋の片付けが苦手だったからお互いの得意と不得意を上手く補い合えた。食べ物の好みも似ていて、彼がたまに仕事帰りに買ってきてくれるチーズケーキとかは特に美味しかったな。未来の話もしたよ。地球にはさ、ほら猫っているじゃん。写真やビデオでしか見たことなかったけど、可愛くて、あれは飼いたいよねって。飼い始めたらどんな名前が良いかなとか。他には自分たちの子どもはひとりだけ欲しいねとか、どんなおじいさん、おばあさんになりたい? とか。

 そんなこんなで気がついたら付き合い始めてから四年ぐらい過ぎていたな。わたしたちの関係は依然として順調だった。彼はわたしの両親にも何度か会いに行った。彼は最初、特に父の前ですごく緊張した様子だったんだけど、どっちもお酒が好きだったから仲良くなるまで時間はかからなかった。仕事の方もなかなか上手くいってて、彼は会社で何人もの部下を率いるようになっていたし、わたしはずっと務めていたカフェの二号店で店長をやるようになった。ねえそろそろ結婚するんでしょう? とわたしたちをよく知る友人たちにからかわれることもだんだん増えてきて、そういうことはもちろん、わたしの頭の中にも、おそらく彼の頭の中にもあった。

 わたしにはひとつだけ心配事があった。この時期。わたしたちはもう、地球の話をあまりしていなかった。

 付き合い始めてからそろそろ五年を迎えるというぐらいの時期になって、大事な話があるからと前置きした上で彼は、結婚しようとわたしに言ってくれた。その時わたしは、たぶん人生で最高なんじゃないかと思うほど、嬉しい気持ちになり、でもそれと同時に、来るべき時が来た、というふうにも思った。わたしは彼に言った。これからわたしの質問にひとつ答えて欲しい。これからの人生を一緒に生きる上で、曖昧にはしておけないことを確かめないといけない。ねえ。あなたは今もわたしと一緒に地球に行こうと思う?

 窓の外をご覧くださいという声が枕元のスピーカーから聞こえたのでわたしは目を覚ました。宇宙船の船室は甘い香りがする。なんでも地球にしか咲いていない花の香りらしい。けっこう強い匂いなので乗船したばかりの頃は少し頭がくらくらしたんだけど今ではすっかり慣れたし、良い香りだなと思う。わたしがこの宇宙船に乗り込んで火星を経ってからもう三ヶ月が過ぎる。ベッドから上半身を起こして窓の外を見ると、そこにはこれまで何度も写真で見た、美しい、青い星があった。わたしはしばらく窓の前に釘付けになり、感動しているのか、していないのかも、ちょっと分からなかった。ただ自分はこの光景を、きっと死ぬまで忘れられないだろうってことだけは分かった。
「このまま火星で、静かに暮らさないか」
 そう言った時の彼の声が、脳裏に蘇る。あのやり取りをして彼と別れてから、八年だか、九年だかが経った。いま思い出しても彼といた時期はすごく幸せだった。これまでのわたしの人生の中で間違いなく、いちばん幸せだった。だからわたしはここの先、たとえ何があろうと、あの頃よりももっと幸せにならなければいけない。あのまま彼と火星に残れば良かったなんて決して思うことのないよう、幸せにならないといけない。

 本艦はもう半日ほどで地球に到達しますとスピーカーらアナウンスが流れる。

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