あなたがヒトをやめる場所

 入浴後にスキンケアをしながらテレビを眺めていると「夫婦が別室で寝るようになったらそれは離婚の前兆」と画面の向こう側でコメンテーターが喋っていた。カチンときてチャンネルを変えると夫の顔が映り、生物学の分野で大きな賞を受賞した研究者として紹介されていた。数秒後。玄関の方から鍵の開く音が聞こえたのでわたしはテレビを消した。帰宅した夫はずいぶん疲れた様子で、夕飯はもう済ませてきたからすぐにお風呂に入るのだと言った。夫が脱衣所に入っていく様子を見届けると、わたしは廊下やリビングの明かりをぜんぶ消して自分の部屋へ行って、シングルベッドに潜り込みひとりで眠りについた。
 
 
 もう何年前になるだろうか。交際をはじめたばかりの頃、夫はある生き物についてわたしに話してくれた。北極付近の冷たい海域に僅かな数だけ存在していたその生き物はムウバという学名で呼ばれていたという。ムウバはアメーバのような不定形生物で、環境に合わせ自分の身体の色や形を自由自在に変えることができた。だが柔らかく非力だったので、他の生き物と争うことが非常に不得意だった。だから普段は主に岩肌などに擬態し、漂ってくる微生物の死骸などを食べながらひっそりと暮らしていた。
 
 ところがある時期。海中の温度が上がったことによりムウバたちの住む海域には本来いなかった魚の群れが現れるようになった。その魚は岩肌にはりついた藻類を主食としていたが、一方で噛み切れるものであれば何でも飲み込んでしまうほどの大食らいでもあった。だから岩肌に擬態していたムウバたちは、あっという間に彼らに食べつくされた。最後まで岩になりすましていたものも、たまらず擬態を解いて逃げようとしたものも、みんな殺されてしまった。
 
 その時。生き延びたムウバはたった一匹だった。最後の一匹になってしまったムウバは、それでもなんとか生き延びていく方法を、文字通り必死で、考えたのだという。悩んだ末にムウバが出した結論は、仲間たちを食べた魚たちと、同じ姿に擬態することだった。いくら魚が大食らいでも、自分と同じ姿をしたものに牙を剥くことはない。ムウバはそれまで岩肌などの動かないものにしか擬態したことがなかったから、はじめのうちは苦労したそうだが、魚の動きを毎日、遠目に観察しているうちに、だんだん上手く化けられるようになった。
 
 それからムウバは魚の群に混じり、彼らの群れの一員として暮らした。とはいえもちろん、仲間が襲われて食べられた時のことを忘れることはできなかった。もしもふとした拍子に、擬態が解けて正体がばれたら、たちまち自分も仲間たちと同じように食われてしまうだろう。魚として過ごしていた期間、そんな恐怖とムウバは常にとなり合わせだった。 
 
 だが数年後、そんな魚にも天敵がいるのだという事実をムウバは目の当たりにした。あんなに強く凶暴だった魚たちの群れは、ある日とつぜん現れた僅か数匹のアザラシによって半壊させられたのだ。その様子を見たムウバは、魚の姿をやめ、今度はアザラシへの擬態を試みた。より強い生き物に擬態する方が生き残る確率が高いと彼は考えたのだ。生き物に擬態するのは二回目だったので、魚の時よりも短期間でコツを掴むことができた。そんなアザラシもシャチには敵わないことを知ると、次はシャチになり、そのシャチさえも人間には勝てないと分かると、陸にあがってヒトの姿になった。
 
 それまで数種類の生き物の生態を観察して学び、擬態して生き残ってきたそのムウバにとって、人間社会の仕組みを理解して適応することはもはや難しくなかった。行方不明の子どもに成かわることで戸籍と家を得た。ヒトの子として学問を身に着けると、海中での経験を活かし生物学者になった。
 
 ムウバのような観察経験を持つ人間の研究者はもちろん他にひとりもいなかった。だから彼があっという間に、世界的な学者のひとりとして認められるようになったのも不思議なことではなかった。多くのヒトビトがムウバのことを慕い、尊敬し、惜しみない賞賛を送るようになった。地位も名誉も得たし、結婚だってした。実はムウバがヒトではないなんて、そんな疑問を抱く者さえどこにも居なかった。
 
 それでも、そのムウバは決して強くなったわけではないと、夫は話していた。なぜなら今でも、海中で魚として暮らしていた頃に常にあった恐怖が、ふとした瞬間に脳裏を過るからだと。もしも何かの拍子に、擬態が解けて正体がばれてしまえば、自分はきっと死んでしまうだろうという怖さが未だにあるのだと。どんなに強い生き物になっても、人間としてどんなに地位を得ても、その恐怖だけはずっと消えることなく、あの頃と同じように自分を追って来ると。だから少しも強くはなっていないと。
 
 
 朝になった。目覚ましの音でわたしは目を覚ました。シングルベッドから出ると眠い目をこすりながら浴槽に向かった。脱衣所には昨夜の帰宅時に夫が来ていた服が脱ぎ散らかされていた。浴室のドアを開けると、そこにはひとの姿はなく、ただ浴槽の底に、どろっとした、大きな、アメーバ状のものが、一定のリズムで身体を収縮させ、ぷくぷく、ぷくぷくと、寝息を立てていた。わたしは軽くため息をつき、そのアメーバ状のものに声を掛ける。
「もう朝だよ。起きてご飯にしましょう」
 

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