娘は小石を王子に見立てて姫の役を演じる

 年内最後の勤務を済ませたあと、事務所の向かいにあるチェーンの居酒屋にて、ささやかな忘年会が開催されました。僕を含めて十一人居る事務所のメンバーは、年齢も入社時期もそれぞれ違っているせいか、それほど仲が良いわけでも、悪いわけでもなく、普段仕事に必要のない会話を交わすことはあまりありません。ですのでこういった、お酒や料理を交えた場であっても、「今年もお疲れさま」とか、「あの現場では苦労しましたね」とか、「例のお客さんは気難しいひとでしたね」とか、「来年もよろしく」といった無難なやり取りばかりを、ぺらり、ぺらりと積み重ねて、百二十分に設定された飲み放題の時間を、何事もなく擦り減らしていくだけです。
 
 ですが、もうそろそろ会もお開きかな、という時間に差し掛かってきた頃です。ひとりのメンバーがすっと立ち上がって、「みなさんにお話があります」と少し震えた声で口にしたのでした。彼は僕よりも十歳近く歳が上なのだけど、入社は僕より遅く、真面目ではあるけど不器用というか、お世辞にも仕事ができるとはいえない人物です。もちろん僕も偉そうにいうほどではありませんが、それでも彼のフォローをせざるを得なかった機会は、幾度もありました。そんな彼が、お酒のせいか、それとも緊張しているのか、顔を真っ赤に染め、もう一度、今度はいつもの仕事ぶりからは想像できないほどはっきりした調子で、「この場を借りて、みなさんに、お話したいことがあります!」と、声に出したのです。 
 
 
 僕があの女性と出会ったのは秋のことでした。その日、彼女には帰る家がありませんでした。前日まで一緒に暮らしていた男に暴力を振るわれ、バッグひとつで飛び出してきたものの、行く場所も、頼れる身寄りもなく、途方に暮れていたと、彼女は初対面の僕に話しました。彼女は背が小さく目が大きく、草原で暮らす野兎を思わせる姿かたちをしており、被食者のような弱々しさと野性的な靭やかさを、同時に宿していました。僕は彼女を部屋に泊めました。そして朝がくるまでのあいだに身体の関係も結び、彼女は僕の部屋で、恋人として暮らし始めたのです。
 
 
 子どもの頃、学芸会で劇をやりました。お姫さまと王子さま、悪い魔女、そして各々が異なる性格をした七人の小人たちが出てくる劇でした。お姫さまを演じたのはクラスでいちばん発言力がある女の子でした。悪い魔女の役を押しつけられたのはいじめられっ子でした。王子さまの役は背が高く腕っぷしが強く女子からも人気のある男の子のもので、彼に日頃から媚を売り取り巻いている男子たちのうち、気に入られている七人が、それぞれの小人の役に選ばれました。
 
 僕がその時、演じたのは、舞台の背景に置かれている石ころの役でした。顔も衣装も灰色に塗りつぶして、台詞はなく、はじめから終わりまで動くことのない、居ても居なくてもストーリーの進行に何も影響しない、つまらない石ころの役です。なぜそんな役をやっていたと思いますか? もしも疑問に思うなら想像してみてください。もしも芝居の中で、何の役割も持っていない人間が舞台に立っていたら、それを見ているお客さんや、他の役者たちは、どう思うでしょうか? 役割のない人間がそこに居ることを、多くのひとは許しはしないでしょう。ですから、良い役割、重要な役割を与えられないなら、何の意味もないつまらない役割でも、演じた方がずっとマシなのです。誰の記憶にも残らなかったとしても、何の役割もなく舞台に立つことよりは、ずっと良いのです。僕があの時、石ころを演じたのは、そういう理由です。
 
 思えばそれ以降の人生でも、僕は始終、そんな石ころのような役割を演じ続けてきました。教室でも。部室でも。キャンパスでも。職場でも。脇役にさえなることのない路肩の石として、そこに居ることを咎められないよう振る舞う。重要な役割や、大きな役割、目立つ役割を求めるような出過ぎた真似はせず、幕が落ちる日まで石ころとして過ごすことが自分にふさわしい生き方だと、そういうふうにすっかり受け容れて生きてきたのです。
 
 
 ですがそんな僕の前に突然、彼女は現れました。それどころか恋人同士として、ひとつの屋根の下で暮らし始めました。彼女は小さく弱々しく、誰かの庇護なく生きることなど、きっとできないくせに、両目にはいつも煌々とした意思が燃えているようでした。もしも芝居をやるなら、彼女ほどお姫さまに相応しい人物もなかなか居ないでしょう。そして彼女の恋人になったことで、僕は彼女から、お姫さまを守る王子さまの大役を与えられたように感じました。
 
 交際するにあたって彼女は、僕のそれまでの友人関係、とりわけ女性との関わりを全て断つよう要求してきました。僕は彼女にいわれるままに、携帯電話のデータをすべて消しました。また仕事を変え、他の女性との接点を一切持たないような仕事に就くことも求められたので、転職もしました。彼女が欲しがるものは何でもあげましたし、どんな我儘にも応えたつもりです。中には理不尽に思われるようなものも幾つかありましたが、それすら僕には大したことではなかった。だってずっと石ころだった僕が、これからもずっと石ころのままだと疑わなかった僕が、彼女と居れば王子さまの役になることさえ許されたのですから! 当時の僕にとって、これがどんなに重大なことだったか、石ころの役で舞台に立ったことのないひとでなければ、分かり得ないでしょう。
 
 彼女が僕のもとから去っていったのは、交際を初めてから数ヶ月後のことです。「あなたのことが好きではなくなった。どこか他の男のところに行く」と、彼女はある日、前触れもなくそう言い、それ以上は何の説明も、話し合う余地もありませんでした。突然のことで、理解することも、納得することもできず、僕は玄関で靴を履いて、出ていこうとする彼女を引き留めようと、その小さな肩に軽く、誓って軽く、右手で触れました。すると次の瞬間「痛い! 暴力振るわないで!」と、つんざくような強く鋭い声で、彼女は叫びました。僕がその声に思わず怯んでしまうと、彼女はもう振り返ることなく、部屋を出ていきました。
 
 彼女が居なくなってからというもの、僕はまた、石ころとしての日々を送っています。しかし以前と同じではありません。以前の僕はただの石ころでしたが、今の僕はといえば、いちどは手に入るかに思われた王子さま役を、取り上げられたあとの石ころです。
 
 
「この場を借りて、みなさんに、お話したいことがあります!」忘年会も終わりかけたころ、そう発言して場の注目を一身に浴びた彼は、不器用で鈍臭くて、芝居の役割でいうなら、僕と同じか或いはそれ以上に、つまらない石ころのような人物に思えました。もっというと、日々つまらない仕事をして、こんなチェーン居酒屋で安酒をあおっている、この場のメンバーみんなが、所詮世の中という舞台の上に転がる、ただの石ころでしょう。にもかかわらず彼が、何秒かの沈黙を挟んだ後、「このたび結婚することが決まりました!」と声を張り上げると、周囲の空気がにわかに、ブワっと熱を帯びます。それからまるで芝居の主役に向けられるような拍手と喝采が、彼に向けられました。その様子を目の当たりにして僕は、嬉しくなったのか、悲しかったのか、自分の気持ちもよく分からぬまま酷く泣いてしまい、加えてずいぶん酔っていましたから、その後のことはよく覚えていません。

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