鉄の桜もすぐに散る


 少し風がある。潮の匂いがする。秋の日差しが揺れる海面に落ちてきらきら光っている。無数のカモメやウミネコが僕の頭上を飛び交う。何十何百の海鳥たちが作り出す黒い影が足元のタイル上で乱れて踊っている。船着場に併殺された休憩所で渋みの強いアイスティーを飲みながら僕は船を待った。僕がこの街にたどり着いたのは数日前のことだがなかなか居心地の良い土地だなと思う。ひとびとは陽気で親切だし魚料理はどこの店で食べてもたいへん美味しかった。青く塗られた珍しい形の弦楽器が奏でる独特の音色は他の土地では耳にできないだろう。水平線に目を遣りながら僕は空想する。次に行く街ではどんな出来事が待っているのだろうか。

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 十七歳の時に僕はあのひとと出会った。当時あのひとは二十五歳だったが、背が小さくて大きな目をしており、少し舌足らずな喋り方をしていたので、化粧や服装によっては年下のように思えることさえあった。僕があのひとと近しかった頃。僕は決まって学校帰りにあのひとと待ち合わせた。あのひとは僕を待つあいだ図書館にいて本を読んでいることが多かった。図書館が休館している日には映画館に居ることもあった。なのであのひとが僕に話すのはいつも決まってその日に読んだ小説だとか見た映画への意見や感想だった。僕はあのひとのそういう話をいろいろな場所で聞いた。駅のホームで。ビルの屋上で。彼女が暮らす六条ほどの部屋のベッドの上で。あのひとはサクラ症だった。

 あのひとの八重歯を僕はよく覚えている。あのひとはいつも笑っていたからだ。コンビニのレジでお釣りをわたしてくれた女の子の指が綺麗だったとか、空を見上げたら雲が動物の形をしていたとか、そんな小さな事柄に対しても笑顔を見せていた。逆に彼女が泣いているところや腹を立てているところを目にしたことはなかった。ベランダに干していた洗濯物が盗まれた時だって彼女は笑顔だったし、僕が学校の体育の授業で足を怪我した時でだって何だか楽しそうな顔をしていた。自分の病気について僕に打ち明ける時でさえ微笑みながら喋った。

 あのひとの身体には幾つかのタトゥーが入っていた。首の後には小さな星が縦にふたつ並んでいた。太ももの内側には見たことのない国の言葉で短い文章のようなものが彫られていた。だけれどいちばん印象に残っているのは胸元にあしらわれた化学式のタトゥーだ。あのひとが患っていたサクラ症という病気は先天性の病気だがはっきりした原因はまだ分かっていない。サクラ症を持って生まれたひとはそうでないひとの三分の一程度の時間しか生きることが出来ない。基本的には自覚症状がなく、普通のひとと同じように生活することが出来るが、ある時いきなり電源が切れるように寿命が訪れる。そういう病気なのだ。サクラ症を持って生まれたひとが三十歳まで生きることはほどとんどない。

 どうしてあなたはいつも笑っているの。あのひとに対して僕はいちどだけそういうふうに尋ねた。彼女の部屋のベッドの上で訊いた。彼女はいつも僕の背中に爪を強く立てた。部屋の明かりは消すこともあれば灯したままにしておくこともあった。あのひとはやっぱり微笑みながら僕の質問に答えた。
「不幸なことが起きた時。みんなはそれを取り除こうとする。不幸の原因に立ち向かえるひとをわたしはすごく勇敢だなと思う。だけどわたしはみんなのように長くは生きられない。不幸と戦うほどの時間をわたしは持っていないし、それと同じように悲しむ時間もない」
 あのひとの耳たぶは幾つものピアスで装飾されていてまるで金属の鱗のようだった。舌にもひとつピアスが空いていた。舌のピアスはキスをする時、前歯に当たってカチカチ音を鳴らした。
「不幸なことに構う時間がない。幸せにしか構う時間がない」
 それから数日が過ぎると僕の前からあのひとは居なくなった。
 
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 船着場に併設された休憩所で僕は船を待った。店の向かいでは大道芸人が一輪車に乗りながらラッパを鳴らしていた。その演奏が終わると同時に霧笛の太い音が聞こえて船がやって来た。青く塗られた立派な船だった。 
 僕自身ががサクラ症だと診断されたのは今から半年前だ。僕は二十七歳になっており最後にあのひとに会ってからは十年経っていた。少し咳が出ていたので病院を受診したら、咳そのものはただの風邪だったが、それとは別にサクラ症の陽性反応が出ており、残りの寿命は少ないという診断が下った。サクラ症は自覚症状のない病なので死ぬその時まで気づかない患者もたまに居るのだそうだ。その診断に僕は大きなショックを受けたのだが、かつてあのひとが語ってくれた言葉がすぐに脳裏を過ぎった。
 やがて船は走りだして港を離れていく。遠ざかっていく陽気な街を僕は窓から眺めた。そして目を閉じそっと繰り返す。
 不幸なことに構う時間がない。
 幸せにしか構う時間がない。








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