彼女は明日もゆっくり歩くだろう

 八月末の斜陽を浴びて一輪の花が咲いた。紫色の花だ。一センチにも満たない小さく地味な花だ。線路沿いの道に建てられた電信柱の根本でアスファルトのひび割れから姿を覗かせるように咲いた。
 
 十六両編成の電車が線路を通り過ぎると周囲の地面はびりびりと振動する。数時間前に僅かな時間だけ強い雨が降ったので空気は湿っている。近くの駅から出てきた無数のひとたちが通り過ぎて行った。
 
 だが誰も花の前で足を止めたりしない。無理もない。目立たない花だ。どこにでもありそうな見た目をした花だ。この花の名前を言える人間は世界にひとりもいない。また電車が通る。車も往来する。
 
 もうじき日が暮れる。ようやくひとりの女が花の存在に気付いた。足を止め、電信柱の前に屈み込んで、花の姿を見た。仕事帰りの女だ。この近くの保育園で栄養士として働いている女だ。名前をフミという。
 
 
 フミの父は彼女が十五歳の時に死んだ。父がいなくなってからというもの彼女の母はすっかりおかしくなった。情緒が不安定になり些細なことで苛立つようになった。前触れもなく怒鳴ったり物を投げて壊したりするようになった。様変わりした母親についてフミはこう振り返る。「父という支柱で以てなんとかひとの親でいられたけど、もともと自分の足だけで立っていられるひとではなかったんでしょう」
 
 フミが十七歳の時に母は再婚した。再婚相手は死んだ父よりもずいぶん若かったが弱々しく自己主張が少ない男だった。きっと母の求めを断り切ることができずに再婚したのだろうとフミは考えた。それで母の様子が少しでも落ち着くのなら別に構わないとも思った。だが現実はフミの見立てとは正反対だった。再婚してからの母は以前にもまして神経質になった。フミが再婚相手と家の中で朝の挨拶を交わしたりついうっかり目線を合わせたりしようものならば「小娘が色目を使うんじゃない!」などと金切り声を上げた。

 母が再婚してからのフミはひとりで街を歩くことが多くなった。下校時にはわざと遠回りをして帰るようになった。休日にはこれといった用事などなくてもふらりと外出した。母と一緒に家にいる時間が苦痛だったからだ。とはいえ外出先で幸せそうな家族連れを見かけるとそれはそれで苦しい気持ちになった。学校で出会う同級生の多くは両親が揃っており彼らの話を耳にするのも酷く苦痛だった。「私の父はどうして死んだのだろう」「どうして私の母はあんなひとなのだろう」「なぜ私ばかり家族のことで辛い思いをしなければいけないのだろう」と自身の境遇を呪った。普通の暮らしがしたい。そんな思いをこの時期のフミは強く胸に抱いた。

 高校を卒業するとフミは調理師の専門学校に進学した。進路を決めるにあたり当時の担任は四年制の大学に進むことをフミに進めたが、フミ自身は一刻も早く就職して自立することを希望し、あいだを取って二年制の専門学校に進学することにしたのだ。

 その二年後に専門学校を卒業して栄養士になったが、彼女が最初に就職した福祉施設は良い職場ではなかった。休みが少なく残業ばかりだった。スーパーマーケットが営業している時間に退社することはまず不可能だったし、仕事を得れば自炊をする体力や気力も残らなかったので、栄養士という職にもかかわらず自身の夕飯はコンビニ弁当や菓子パンばかりだった。辞めたい思いは日々募っていったが転職活動をする時間もなかなか持てなかった。勤め先が経営難で倒産するまでそんな生活が五年以上も続いた。
 
 前職の倒産を機に現在の勤め先である保育園へ転職するとフミはようやく落ち着いた暮らしを手にすることができた。退勤後に買い物をして自宅の台所に立つ余裕だって持てるようになった。情緒不安定な母親から離れ、仕事の面での安定も手にして、これでようやく十代の頃から憧れ続けてきた、普通の暮らしができる、平均的な同世代と遜色のない生活ができるだろうと思った。
 
 しかしここでもフミの見立ては外れることになる。彼女が家族や仕事といった問題の前で何年も立ち止まっているあいだに、中学時代や高校時代の級友たちの多くは、その人生を更に別の段階へと進めていたからだ。時間に余裕ができたからと数年ぶりに同窓会に出席してみれば出席すれば恋愛を経て結婚し出産までしてひとの親になっている者が既に少なくなかった。あるいは仕事に邁進しフミの倍近い給料を稼いでいる者もいた。もはや追いつくことはできないのだと思い知らされた。
 
 
 線路沿いの道に花が咲いている。紫色の花だ。一センチに満たない小さく地味な花だ。ひと目に留まる取り柄を持たず誰も彼もに素通りされる目立たない花だ。だがフミだけは花の存在に気づいた。足を止めて屈み込み花の姿を見た。この花の名前を言える人間は世界にひとりもいない。

 なぜならこの花には名前がないからだ。この花を発見し名前をつける人間が過去にいなかったからだ。どこにでもありそうな見た目をした花だが、非常に希少な花だ。そして間もなく滅びていく花だ。大昔からこの一帯にだけ細々と生息していたこの弱々しい花は、誰にも知られないままここ数年でみるみる数を減らし、ここに咲いているのは最後の一輪だ。そしてこれも、世界の誰にも知られていないことだが、この種の花が開花するのは一晩限りなので、明日の朝には枯れている花だ。

 そんな花を、フミという栄養士の女ひとりだけがここで眺めている。この花の希少性など知る由もないフミだが、ただ、綺麗だな、と心の中で呟く。目の前の線路をまた電車が通り過ぎる。駅の方から歩いてくるひとびとの流れが途切れることはない。何十人何百人もの人間がフミを追い抜き、花を素通りして、ぐんぐん歩いていく。夜がやってくる。車や自転車のライトが現れては消える。夏の終わりは近い。
 
 
 きっと誰にも追いつくことはできない。
 彼女は明日もゆっくり歩くだろう。

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