キャッチボール地獄

仕事で出会った少し有名なアーティストのひとに作品の意図を尋ねてみたのだけど、
「説明はしたくない。説明されたものは面白くない」という旨の返事が返ってきた。

分かんないものが綺麗だとか素敵だとかいう価値観には大いに共感する。するんだけど。だからといって考えれば分かるようなモノや説明すれば分かるようなモノまでワザと分かりにくくしてしまうな態度は、さながら浅瀬で溺れる真似事をしているかのようで僕の目にはすごく滑稽に映った。大抵の物事はどれだけ深く掘り下げようともどうせどこかで分からなくなるんだから、どうせ分かんなくなるんだったら、きちんと深部で分かんなくなれよと思う。

「説明された。理解した。じゃあもう良いや」となるだろうか。
なる時もあるだろう。ただしそれは説明された内容が受け手にとって退屈だった場合だ。
受け手にとって価値のある説明の先にならば、「自分はこう思う」「もっと深く知りたい」というような感想が得られるはずではないか。

自分の作品の意図について説明するかどうかは勿論作り手の自由だ。
手品の種を隠すように、敢えて全貌を見せないことによって受け手を意図する感想まで導いていくという手法も確かにあるだろう。
けれど「説明されたもの」全般を「面白くない」と断じてしまうようなその姿勢は、自分の居る場所の浅さを説明によって暴かれたくないがための自己防衛にしか見えないなと感じた。

僕は自分の作品の中では可能な限り細かく正しく筋道立てて説明を掘り下げていくことを心掛けている。可能な限り掘り下げた果てに辿り着ける「ここから先をどうやって掘り進めたら良いのか分かんない」という場所まで読み手を連れていきたいと思うし、その深度まで行って初めて「分からないモノの素敵さ」を感じてもらえるようになりたい。自分はそうなりたい。



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