ただいま、そしてさようなら


 
先週まで住んでいた東京の住居を訪ねて鍵を返してきた。家財道具をぜんぶ運び出し空っぽになった部屋の玄関を一週間ぶりに開けて「ただいま」と口に出した。モノがなくなった部屋の中には声がよく響いた。電気は翌日までの契約にしておいたのでコンセントにパソコンを繋ぎ床の上に座って少し仕事を進めた。昼食には住んでいた1日置きぐらいの頻度で通っていた近所のお弁当屋さんでお気に入りのカレーライスを買った。
 

 
メゾネットタイプで天井が高くの床面積よりも広く感じる空間。上の階の窓から吹抜け越しに下の階を覗き込める作り。大きな窓を挟んで備え付けられた本棚にカウンターテーブル。机と椅子を置ける広さがありスカイツリーが遠くに見えるベランダ。5年前に内見で見て「ここに決めよう」と一目惚れした時のことを改めて思い出した。当時はまだ同棲をはじめて1年ほどだった妻とこの部屋で思い出を作りたいと思った。
 

 
実際にこれまで暮らした幾つかの場所の中でも現時点でいちばん思い入れの強い場所になった。籍を入れた日の朝はよく晴れていて吹き抜けの窓から朝陽が差していた。結婚式をした日には早朝4時まで4次会をしたあと友人たちが荷物を持って一緒に来てくれた。10人近くを呼んでホームパーティをした時には部屋の中にある階段が椅子代わりになったし上の階の窓から集合写真を撮れた。キャンドルの資格を取った妻がひとを招いてワークショップを始めた。共用の階段は広くなかったので旅行や出展の時にキャリーケースを降ろす時にはすこし苦労した。ふたりで出掛けた先々で買ったポストカードを壁に貼っていた。深夜に裏の駐車場から喧嘩をする猫の鳴き声が聞こえることがあった。住んだ時間のぶんだけふたりとも年齢を重ねた。
 

 
商店街がすぐ近くにあった。前述のお弁当屋さんとはいつからか立ち話をする間柄になった。カープファンの兄弟がやっている揚げ物屋さんがあり前日の試合について買い物のたびに話していたのだけど去年でお店を閉めた。この夏には家から駅まで数百メートルのあいだにタピオカ屋さんが3つもオープンした。近くに住んでいた特別人懐こい野良猫は前の冬を最後にふらっと姿を消した。5年間住む中で色々なものと出会ったし新しいものも多くやってきた。出ていくものや居なくなるものも同じぐらいいた。そして今度は僕らがいなくなる。街というのはそういうものなんだろう。
 

 
最後の片付けを終えて部屋を出ていく時「お世話になりました」と言った。やっぱり声は響いたしまた泣いてしまった。電車に乗って新しい家の最寄り駅から歩く途中本当にたくさんの思い出ができたと帰り道に妻と話をした。ここではもっとたくさん思い出を作ろうとも。
 

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