されど私がいちばん美しい

「弄れば気持ち良くなれる部位が自分の身体にあると気づいたのは小学生の頃」とナナカが私に話したのは知り合ってから間もない時期だった。まだ他に誰も来ていない早朝の教室で私はナナカの美しい横顔を眺めながら黙って話を聞いた。「あたしの母は強く優しく賢い。だからあたしは父親がいない不自由さを感じたことがない。でもあたしは過去に一度だけ母にぶたれたことがある。あたしが自分の身体を弄って気持ち良くなっている現場を母が目にした時だ。平手で強くぶたれた。身体は吹き飛び壁に頭を打った。次の瞬間母はあたしを抱きしめごめんなさいごめんなさいと泣いて喚いていた。あたしは泣かなかった。混乱するばかりで声も出なかった。当時のあたしは人間の子がどう生まれるのかも知らなかったし自分がなぜ叩かれたのか理解できなかった。身体を弄って気持ち良くなるべきではないということだけが心に刻まれた。気持ち良くなれば再び母が豹変してしまうと」
 
 どうしてあんなことを私に話したの? 後になって私が訊ねるとナナカは「誰でも良かった。ずっと誰にも言わずにいたが限界だったのであの朝最初に登校してきたひとに打ち明けようと決めていた。話したのがヨシノで良かったと今は思う」と答えた。あの日を境に私たちは友だち同士になった。今もナナカは時折悩みを私に吐露する。「今後あたしは恋やセックスができないかもしれない」と彼女は先日も語った。「今のあたしはあれが性的な気持ち良さだということを理解している。母が当時あたしに向けた暴力は理不尽だったと思う。性が悪ではないことを頭では分かっている。なのに自分の身体が気持ち良くなることを未だに怖いし嫌だと感じる。『気持ち良くなる身体』『それが悪ではないと分かっている頭』『気持ち良くなるべきではないと刻み込まれた心』この三つが正しく噛み合わない。だからあたしはみんなのように恋やセックスをすることができないかもしれない」
 
 ナナカは美しい。ふたりきりでいる時を除けばあまり口数が多い方ではないが雪の中に息づく樹氷のような静の魅力がある。ナナカが私以外のクラスメートと話している場面などほとんど見かけないが彼女の事情を一切知らないひとであっても黙って佇むその姿を遠目に見ていればひんやりとした容姿の内に秘めた生々しい熱をきっと微かに感じることだろう。なので教室の中では多くの男の子がナナカと恋仲になることを仄かに願っている。それと同じぐらい多くの女の子がナナカと友だちになりたいと望んでいる。そんなナナカと私が親しくなれたのは彼女自信が言っていたように偶然でしかなかった。私は特に何も持ってはいない。美しいわけでも賢いわけでもない。喋ることは苦手だし会話の際は黙って聞くばかりで気の利いた言葉のひとつも向けることができない。彼女と並んで歩いてれば「なぜヨシノなんかが」「釣り合わないよね」と私を指差し嗤う声は毎日聞こえてくる。
 
 私は恋をしている。相手は同じクラスのイシダという男子。中学校の入学式で知り合い今は同じ高校に通っている。これは私のいちばん最初の恋だが多くの初恋がそうであるように大層な理由があって好きになったのではない。思春期にさしかかり誰かに恋をしてみたいと思った時たまたま傍にいた異性がイシダだった。ふたりの姉に囲まれて育ったというイシダは男女を問わず誰にでも人当たり良く接する。他の男子のように「あの子は可愛い」「あいつはブス」と女子を軽はずみに値踏みしたりしない点も良かった。そんなイシダだが去年の秋にこんな相談を私に持ちかけた。「ナナカさんと仲良くなる方法があれば教えて欲しい。おれはあのひとのことが好きなんだ」私は息を呑んだが自分とナナカが親しくなったのは偶然に過ぎないので良いアドバイスはできないとありのままを伝えた。それから数日経ち「イシダくんから交際を持ちかけられたけど断った」とナナカから聞いた。
 
 ナナカへの恋に破れて以降イシダは以前より頻繁に私と連絡を取り合うようになった。この時期イシダから私のスマートフォンに送られてきたメッセージは失恋の辛さを綴ったものが多く、それは彼が教室で見せる気配り上手な姿とは異なる一面だったがそんな部分も私は好きだと感じた。やり取りを重ねる中で彼が語る内容にも変化が現れた。失恋への言及は徐々に減りその日あった他愛ない出来事や趣味や家族や進路についても話すようになった。そしてある日曜日の午後。バス停の屋根の下でイシダは呟いた。「良いことも悪いこともヨシノになら安心して話せる」そしてこう続けた。「いつの間にかヨシノのことを好きになっていた」バスが来るまでにはまだずいぶんあった。セックスだけならヤらせてあげる。と私は彼に言った。言うと気分が酷く高揚し私の口角は自然と持ち上がった。彼はは間の抜けた顔で私を見つめながら「ヨシノ、そんな顔するんだ」と弱い声を発した。
 
「今後あたしは恋やセックスができないかもしれない」橙色の斜陽が差し込む放課後の教室でナナカは今日も私にそう語る。私は彼女の整った顔を正面から眺めてじっと話を聞いた。窓の外からは金属バットがボールを叩く音やランニングをする陸上部の掛け声などが聞こえる。教室には私とナナカのふたりだけしかいない。「そろそろ帰ろうか」とナナカが言う。私は席を立つ。ふたりで教室を後にして校舎の階段を一段ずつ降りる。「ナナカと並んで歩いているとまるでヨシノは引き立て役みたい」「ナナカと自分を見比べて惨めになったりしないんだろうか」そんな陰口は今日も変わらず私の耳に届いた。ナナカは美しく私はそうでもない。それは私がいちばん理解している。それでも私は今日もナナカの隣に立つ。後ろでも前でもなく横に並んで歩く。私が恋をしていたことはナナカもイシダも知らない。昇降口で靴を履き替え校舎の外に出る。

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