祈る思いの強いほど

 不眠症の薬を貰うためクリニックに行ったが前回までと同じ処方をして欲しいだけなのに眠れなくなった原因や近況についてまたも詰問されたので酷く疲れてしまった。秋の虫の音が聞こえる中アパートに帰り着いたのは二十一時過ぎで郵便受けを確かめると海外からの封筒が一通届いており差出人欄にはお姉ちゃんの名前が英語で書かれていた。それを見た私は重い空気が喉の奥に詰まるような感覚を覚えて気付くと数秒間呼吸を忘れていた。

 写真家として海外を拠点に活動する十歳年上のお姉ちゃんと数年振りに再会したのはまだ暑かった先月半ばのこと。あのとき自宅の玄関前で私を待つ彼女を見つけたのも薬を貰いにクリニックへ行った帰りだった。この前日に帰国した彼女は翌日には再び出国予定だったが隣県の実家に一泊した際に両親から私の住所を聞き会いに来たのだという。理由を尋ねると彼女は「久しぶりにあなたをに撮りたくなったんだよ」と笑顔を浮かべて答えた。
 
 再会した日のお姉ちゃんは私の部屋に泊まり同じベッドで眠った。私は薬を飲んだが隣に体温を感じるのはいつ以来だろうと考えてしまい結局眠れなかった。朝になると姉が運転するレンタカーで隣県へ撮影に出かけた。辿り着いたのは実家からほど近い広いばかりの原っぱ。子どもの頃から彼女が私を撮影するのはそこと決まっていた。「飛行機の時間もあるし手短にやるね」と彼女は無邪気に言いながらカメラを私に向けた。私は恐怖した。
 

 
 もしも憧れの人物をひとり挙げるよう誰かに言われたら私は迷わずお姉ちゃんの名前を口にするだろう。私が彼女に抱いている尊敬の気持ちは子ども時代から今に至るまでずっと変わらない。いちばん古い記憶にある彼女はまだ中学生だったが「将来は写真家になるんだ」と周囲に語っており実際に大人も参加する幾つかのコンクールで賞を獲っていた。受賞作の中には私の姿を映したものも数枚含まれている。私はいつもそれが誇らしかった。
 
 お姉ちゃんの写真はまるで魔法のようだ。彼女が撮るのは単に被写体の在りようだけではない。シャッターを切るその瞬間の彼女自身の心の動きまでもをフィルムに焼きつける。彼女が被写体を愛おしく思いながら撮った写真であればそれを見たひとも愛を感じるのだ。怒りの中で撮った作品ならそれを見たひとも同じように怒りを覚えるのだ。「その現象こそ彼女の才能である」とお姉ちゃんの写真を高く評価する大人たちは口を揃えて言う。
 
 お姉ちゃんに撮られることが何より好きだった。現像した写真には彼女から私への思いも映っておりそれを見れば自分が愛されていることを実感できたからだ。運動会の徒競走で転んで泣いてしまったときに撮られた写真を見返せば「一等ではないけど最後まで走りきって偉いね」と当時彼女が私に向けた視線の温度が確かに蘇る。誕生日のたびに撮ってくれた写真に目を通せばどんな思いで彼女が私を抱きしめていたのかはっきり理解できる。

 やがて彼女はかつて宣言した通りに写真家として生計を立てるようになり私が中学校に進学する頃には拠点を海外に移すことが決まった。着々とステップアップしていく彼女の姿を見て私自身もひとつの夢を抱くようになる。いつか写真ギャラリーを開業しお姉ちゃんの作品を飾るという夢だ。お姉ちゃんが初めて出国した日に空港でそのことを打ち明けると彼女は「夢は叶うよ。楽しみにしてるね」と微笑んで私の背中をぽんと叩いてくれた。


 
 あの男と出会ったのは私が大学生になりひとり暮らしを始めて間もない頃だった。最初にふたりで食事をした際にお姉ちゃんのことを話すとあの男は「自分は以前からあのひとの写真のファンだったんです」と言った。当時お姉ちゃんの写真は雑誌やネットでたまに見かけたが一般的な知名度があるわけではなかったので彼女のことを知っているという男の言葉は私にとって嬉しいものだった。私は思わず心を開き数日後には身体も許していた。

 あの男と関係は一年ほど続いた。私はあの男のことが好きだった。けれどあの男の私に対する態度は日が経つごとに冷たくなっていく。「それはあなたの心に価値がなくなっているからだよ」とあの男は言った。「出会った頃はあんなに素敵だったのに今のあなたには身体以外の価値は感じない」とセックスするたび言われるようになった。「今のあなたの姿を見たらお姉さんもきっと失望するだろうね」と言われたときには心の底から怯えた。

 いつしかあの男は私を抱くときに避妊しなくなった。私はいよいよ危険を感じあの男と距離を置くことも当然考えた。だが「あなたみたいな価値がない人間は僕から離れたら誰からも愛されない」とあの男に言われるとそれも恐ろしく距離を置く決断ができなかった。関係を断てずにいるうちに私は妊娠した。学生の身で産めるはずなく中絶手術を受けた。手術が済んだことをあの男に伝えると「人殺し」と謗られそれを最後に連絡が途絶えた。

 あの男と出会う前の私は心と身体と夢でできていた。だけど自分の心が価値を失ったという感覚はあの男との関係が終わった後もつきまとって消えることがなかったし身体も以前と同じには戻れなくなってしまったと中絶手術を受けた時に思った。心も身体もおかしくなってしまい私には夢しか残っていなかった。写真ギャラリーを開業しお姉ちゃんの作品を飾るという夢だ。実現するためにはお金が必要だった。だから私は夜の仕事を始めた。
 
 夜の仕事は価値を失った心と望ましくない形に変わり果てた身体を夢のための資金に交換する作業としてこなした。私自身でさえ大切にできなくなっていたこの身体だが毎晩それなりに買い手はついていた。しかしそんな営みも私が不眠症を患ったことで終わりを余儀なくされた。不眠症は心身の強いストレスによるものだとクリニックの担当医は説明した。とっくに価値を失ったくせにストレスだけは感じるのかと自分の心を私は憎く思った。

 不眠症の症状は重く処方された薬の効果も限定的で寝不足による倦怠感が昼夜の区別なく心身を冒した。夜の仕事はもとより大学にも通うこともほとんどできなくなった。夜の仕事で増やした貯金も夢の実現に必要な額には全く足りていない。何もできない期間が続き自分は無価値だという思いは一層強くなる。かつてあの男に言われた「今のあなたの姿を見たらお姉さんもきっと失望するだろうね」という台詞が頭の奥で何度も繰り返された。
 

 数年ぶりにお姉ちゃんと再会し「久しぶりにあなたを撮りたくなったんだよ」と言われたのはそんな矢先だった。彼女が選んだ撮影場所は実家からほど近い広いばかりの原っぱ。子どもの頃から彼女が何度も私を撮った場所だ。用意された衣装は喪服のような黒い服だった。彼女のカメラからシャッター音が鳴るたび私は恐怖した。足元に群生する瑞々しい緑を靴で踏みしめながらいつの間にか私は祈りのように両手を顔の前で組み跪いていた。

 お姉ちゃんの写真はまるで魔法のようだ。シャッターを切るその瞬間の彼女自身の心の動きまでフィルムに焼きつける。彼女と会わなかった数年間で私の心は価値を失い身体も変質した。今の私を見て失望する気持ちが彼女の中に少しでもあれば必ず写真にも映っているだろう。それが私には何より恐ろしかった。彼女に嫌われたくなかった。撮影を終えた彼女は「今日の写真を現像したら送るね」と言い残し海外の拠点へと再び帰っていった。

 クリニックで不眠症の薬を貰い帰宅した二十一時過ぎにアパートの郵便受けを確かめると海外からの封筒が一通届いていた。差出人欄には英語で書かれたお姉ちゃんの名前。中身は先日撮られた写真だと察しがつき私は息を呑んだ。間接照明だけを灯した薄暗い部屋で私は封筒を開け中の写真を取り出す。まず目についたのは黒い服に身を包んだひとりの女が緑の上に跪き祈っている写真。これまで目にしたあらゆる作品の中で最も美しかった。

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