ぼくは猫です。
ぼくは黒い猫です。
人間には飼われていません。ぼくは野良の猫です。
ぼくは黒い猫です。
ぼくの住む町の片隅には、藤田さんという名前のおじいさんが、ひとりで暮らしています。
藤田さんは眼鏡をかけた、白いひげのおじいさんで、ぼくのことを、ナゴ、という名前で呼びます。
ぼくは野良の猫で、だから本当はぼくに名前なんかないのだけど。眼鏡をかけた、白いひげの藤田さんは、ぼくのことを、ナゴ、という名前で呼んでいます。
ぼくは毎日、藤田さんの家に通いました。ナゴ、という名前で呼ばれることを、ぼくは嬉しいと思うのです。
「なあ、ナゴ」
縁側に座って、膝の上に乗せたぼくの背中をなでながら、藤田さんは言います。
「お前はずっと、私の傍からいなくならないでくれよう。なあナゴ。カミさんも息子たちも、みんないなくなってしまったんだ。お前はずっといなくならないでくれよう」
ぼくを優しくなでながら、藤田さんは言います。
ぼくは野良の猫で、だから本当はぼくに名前なんかないのだけれど。ナゴ、という名前で呼ばれることを、ぼくは嬉しいと思うのです。
だけれどある日のこと。
ぼくが藤田さんの家に行くと、藤田さんはいつものように縁側に座っていました。でもその膝の上には、ぼくではない別の黒猫が、背中を丸めて佇んでいるのでした。
「なあ、ナゴ」
その別の黒猫に、藤田さんは言います。いつもぼくに言うのと、まったく、同じちょうしで。
「お前はずっと、私の傍からいなくならないでくれよう」
言われた別の黒猫は、にゃあ、と、心地良さそうな声で、鳴いていました。
ぼくは黒い猫です。
ぼくは野良の猫で、だからぼくに、名前なんかありません。
あの日以来、ぼくは藤田さんの家を訪ねてはいません。
ぼくは野良の猫で、名前のない、黒い猫です。