二十二時。
雨の音が聞こえる。秋独特の静かな雨音だ。こんな雨音を聞いていると寂しい気分になる。寂しくなるのはきっとこの音が人間の心音に少しだけ似ているせいだと思う。そして私はこの雨音をなかなか好きだと感じる。まるで自分が孤独な人生を送ってきたかのような気分になれるからだ。
私は自分のベッドの上に居る。今夜はなかなか寝付くことが出来ない。布団の上で目を閉じたまま寝返りを繰り返した。それでもなかなか眠気は訪れない。仕方がないので眠ることを一旦断念した。瞼を開いて上半身を起こした。カーテンの隙間から街灯の明りが微かに入って来る。その明かりを頼りにして暗い部屋の中をしばらく眺めていた。私はあまり視力が良くないから、眼鏡やコンタクトレンズを装用していないと、周囲の景色がぼんやり滲んで見える。
部屋の壁には表彰状が一枚飾ってある。中学時代に陸上の地区大会で入賞した時のものだ。あの日の私はで百メートルを走って七位に入賞した。私は高校生になった現在も陸上部に所属しているけど、中学高校を通して、大会で入賞出来たのはあの時一度きりだ。それどころか今では、中学時代の自分のタイムを上回ることだって出来ない。
酷く喉が渇いた。私はベッドを降りた。その場でいちど大きく伸びをした。眼鏡を掛けた。それから部屋を出た。
階段を降りてリビングに行った。両親は既に眠っているので明りは点いていない。カウンターキッチンの裏側に回って冷蔵庫を開いた。冷蔵庫から漏れる光が部屋をほんのりと照らした。私の両目は暗闇に慣れていたので、それを眩しいと感じた。紙パックのオレンジジュースを取り出し、プラスチックのコップに注いで飲んだ。
リビングのテーブルには花瓶が置かれている。小さな硝子の花瓶だ。そこには一輪、花が挿されている。何という名前の花なのかは知らない。赤い色の花だ。父が先日買ってきて、母に贈った花だ。私の父は、週に一輪ずつ、母に花を贈っている。父は母のことをとても大切にしているのだ。そして母も同じように父を大切にしている。だから娘の私は、父からも母からも愛されていると感じる。
雨の音と、時計の秒針が動く音が聞こえた。私は深く溜め息を吐き、花を睨みつけた。そのうち眠気がやって来たので、音を立てないよう、気を付けながら自分の部屋に戻った。
学校。英会話の授業。外国人の先生が黒板に板書をしながら英語で喋っている。
私は窓際の席に座っている。この頃また視力が落ちた気がする。今は両目にコンタクトレンズが入っている。にもかかわらず黒板の文字が少し読み取り難い。
前の席にはスミレが座っている。スミレは私と同じ陸上部に所属している。私と同じ百メートル走の選手だ。
私は窓の外に目を遣る。昨日の夜に降った雨は止んだがグラウンドには水貯まりが残っている。第二校舎の屋上からは大きな垂幕が下がっている。そこには祝・全国大会出場という文字。それからスミレの名前が記してある。私はスミレの小さな背中と外の垂幕を交互に眺めてみる。
昼休み。
私とスミレは音楽室で過ごした。私はピアノの椅子に腰かけた。スミレは私の前に立っている。私たちはふたりともピアノを弾くことが出来ない。それは私とスミレのあいだにある数少ない共通点のうちのひとつだ。スミレは私の目の前でワイシャツのボタンをひとつずつ外した。ブラジャーに包まれた小さい胸。その下に浮き上がる肋骨も露わになる。鍛え上げられてうっすらと割れた腹筋。引き締まった美しい身体。
だけど最も目を引くのは、その身体のあちこちにある、薄紫や黄緑色をした痣の数々だ。痣は主に、服を脱がなければ見ることの出来ない箇所にたくさん残っている。陸上の練習によって出来た痣ではない。これはスミレの父親によって作られた痣だ。スミレは日常的に父親からの暴力を受けているのだという。
私は手を伸ばした。スミレの胸元の痣に指先で触った。スミレの痣に触れる時、私の指はいつも細かく震える。
「痛くない?」
私はスミレに尋ねた。スミレは笑顔で首を横に振る。これも毎回のやり取り。
私はスミレの身体を美しいと感じる。鍛えられて引き締まった筋肉。くびれた腰。小さな胸。長い睫毛。太腿や脹脛。柔らかさと硬さが常に同居している。スミレはこの身体で、平均的な運動部の男子なんかよりも、ずっと速く走る。そしてその笑顔と、痛々しい痣とのコントラストを見ても、綺麗だなと思う。
スミレの全てに私は憧れる。
放課後。陸上部のグラウンド。
赤茶けた色の百メートルトラック。私とスミレは一緒にそこを走った。ヨーイドンの合図と共にスタートラインを飛び出す。スミレはすぐに私の前を行く。私がそれに置いて行かれまいと歯を食いしばれる時間は、ほんの二秒にも満たない。私は視力が悪いから、スミレとの距離が開いていくにつれて、彼女の背中がぼやけて、はっきり見えなくなる。そうなってしまうと競う気持ちも起きない。
スミレは私の欲しいものを全部持っている。だけど私は彼女を妬めない。私にスミレを嫉むことなど出来ない。背中が見えないほど遠い相手には、嫉妬することだって出来やしないのだ。
帰宅すると魚の焼ける香ばしい匂いがした。母がキッチンに居て夕飯の支度をしていた。父親も帰っていた。父親はテーブルの上にノートパソコンを広げて、会社から持ち帰った仕事をやっていた。
「おかえり」
ふたりは私にそう言った。私は微笑んだ。
私は自分の部屋に行った。制服を脱いだ。部屋着のスウェットに着替えた。
リビングに戻ると家族三人で夕飯を済ませた。炊き込みご飯。焼き魚。和風サラダ。味噌汁。
テーブルの真ん中には花瓶が置かれている。小さな硝子の花瓶だ。赤い色の花が一輪挿されている。父が先日、母に贈った花だ。母は父から花を貰うと、花瓶の水を毎日変えて、萎えてしまうまで大切に扱う。この花瓶は、私が物心ついた時には既にここに在った。それから何百本の花がここに挿されただろうか。花を介した両親のやりとりはずっと続いている。そんな私の家族。眩暈がするほど平和で暖かい。
翌朝。
スミレが登校してくるとクラスはざわめいた。スミレが松葉杖をついていたからだ。左足にはギプスを巻いていた。スミレは笑顔でみんなに挨拶していたけど私は目を逸らした。窓の外を眺めた。第二校舎の屋上から下げられた垂幕を見詰めた。
昼休み。
私とスミレはいつものように音楽室で過ごした。スミレは今日も私の前でワイシャツのボタンを外した。露わになった肌には、昨日はなかった新しい痣が幾つも出来ていた。私はそれに震える指で触った。
「痛くない?」
私はスミレに尋ねた。スミレは一瞬だけ表情を歪めたけど、それから笑顔に戻り、首を横に振って笑った。スミレは足首を骨折してしまった。骨折した理由は尋ねるまでもなかった。しばらくのあいだ走れないだろう。だけど私は、足の怪我や走れないことによって、彼女の美しさが損なわれたということは少しもないと感じた。
真夜中。
日付が変わってから自分の部屋を出た。階段を降りてリビングに向かった。リビングのテーブルには花瓶が置かれている。そこには赤い色の花が一輪挿されている。両親は既に眠っているので明りは点いていない。にもかかわらず花びらというのは、少しの光の中であっても仄かに光って見えるような気がする。
私は花瓶を手に取った。それを勢いよく、床に叩き付けた。パリンと高い音が響き、硝子と水が床に飛び散った。花の茎は折れて曲ってしまった。自分の心音がはっきりと聞こえた。先日の雨の音が頭を過ったけど、心臓の音と雨の音は、思っていたほど似ていないなと感じた。
私はそれからオレンジジュースをコップ一杯飲み、自分の部屋に戻った。
更にその翌朝。
私は目を覚ました。ベッドから出て大きく伸びをした。朝だというのに救急車の音が聞こえていた。すぐに聞こえなくなった。カーテンの隙間から日差しが差していた。
階段を降りてリビングに行った。母親はキッチンで朝食の支度をしていた。目玉焼きとベーコンの焼ける匂いがした。父は新聞を広げて読んでいた。何事もなかったかのように普段通りだった。ただテーブルの上に置かれていた花瓶と花だけがなかった。そしてよく見ると、父の右手の親指には絆創膏が巻かれていた。
「おはよう」
両親は私が起きて来たことに気付くと、揃ってにこやかに、私にそう言った。私は泣きそうになったが、いつものようにささやかな笑みだけを返した。