気付くと私は見知らぬホテルの四角い一室で精巧な彫刻の施された木彫りの椅子に腰を降ろしており、窓の外には橙色の夕日の海が見えた。すぐ目の前には細身のスーツに身を包んだ痩せて背の高い鷲鼻の男が立っていて、胸に付けはた白いプレートを覗き見ると彼がこのホテルの支配人であるということが分かった。「あなたはこのホテルにチェックインしました」支配人は私に向かって静かに穏やかな口調で喋った。「何日間でも滞在することが出来ます。宿泊費は安くありませんが、チェックアウトの際にまとめて払っていただければそれで構いません」
部屋を出て螺旋階段を下り、赤い絨毯の引かれたホテルのロビーに降りると、そこには私の他に何人かの宿泊客が居り皆が和気藹々とした雰囲気で談笑をしていた。耳を傾けると、話題は主に、[自分はこの先何になりたいのか?]という問いに関してだった。十歳ほどの男の子は目を輝かせ、自分は飛行機のパイロットになりたいのだというふうに答えた。若い女性は歌手になりたいと言い、豊かな口髭を蓄え身体の大きな男は、鉱山で金を掘り当て一攫千金を得たいというようなことを答えた。車椅子に乗った白髪の老人は、皆に憧れる運動選手になりたいのだと喋った。質問に答える順番はそうして次々とロビーに居る人間たちの間を回っていき、ついに新参者のわたしが答える番になった。「やあ新人さん、あんたは一体何になりたいんだい」と、口ひげの男は私の答えが待ちきれないといわんばかりに尋ねた。まだはっきりとは分かりませんが、と、はじめに断ったうえで私は、なれるならば正しい大人に。というふうに答えた。「歓迎するよ」と彼らは私に言った。
そのように長い時間、皆がホテルのロビーに留まり[自分はこの先何になりたいのか?]についての談笑を続けていると、やがてひとりの掃除夫がふっとロビーに現れ、床に跪いて絨毯の上に落ちたとても細かな埃を、一粒、一粒、指先で拾ってはごみの袋に集めることを始めた。掃除夫はまるでボロ布のように粗末な制服を着ており、見るからにみすぼらしかった。ロビーに居て談笑をしていた皆は掃除夫の姿を目にするや否や、誰もが一様に枯れに対して蔑む視線を向けた。「なあ先ほども言ったように、俺は鉱山で金を掘り当て一攫千金を夢見ているんだがな」口ひげの男は、そう、私の隣で囁き「俺は金を掘り当て一攫千金を夢見ているのだけれど、あのみすぼらしい男は、たった一度の貴重な人生を掃除などすることに費やし、果たして満足なのかね」と、掃除夫の後姿を指差しながら嗤った。
その後数週が経っても、私はまだその得体の知れぬホテルに滞在したままだった。宿泊費は安くないしチェックアウトするときにまとめて払わなければならないのだけれども、チェックアウトをしない限りは何日間でも滞在することが可能なのだという。ロビーに降りれば、宿泊客たちは皆来る日も来る日も、[自分はこの先何になりたいのか?]について飽きることなく談笑を続けていた。だがしかし、パイロットになりたいという男の子はこれまでいちども飛行機に乗ったことがないのだというし、歌手になりたい女が歌っている姿を目にすることはなかった。口ひげの男は一向に金があるのだという鉱山に向かう様子など見られないし、運動選手になりたい老人に至っては、見たところ腕を上げる筋肉さえもが足りていないような気がした。だんだん私は彼らを恐ろしく感じた。早くこのホテルから出て行かなくてはならない、と思った。
ホテルの受付に出向いて、ここから出て行きたいという旨を私は痩せて背の高い鷲鼻の支配人に対して伝えた。「チェックアウトするならばお支払いを」と、支配人は私に向かって言う。だが宿泊費は安くないし、数週間ものあいだ滞在したので、私の手元には支払いをするだけの持ち合わせがなかった。すると支配人は「チェックアウトの際にはお金を頂きますが、チェックアウトをされないのならばあなたは何日間でも滞在することが出来ます」と前置きしたうえで「ですがそれでもチェックアウトなされるなら、しばらくここで掃除夫として働いていただくことになりますけれども、それでもよろしいですか?」と、静かに穏やかな口調で私に説明した。
宿泊客の皆は今日もやっぱりロビーに集まり[自分はこの先何になりたいのか?]についての話を変わらず弾ませていた。そこにボロ布のように粗末でみすぼらしい掃除夫の制服を纏った私を見つけると、「ああ汚い!あいつは掃除夫になったか」などと口汚くののしり。私の方を指差してげらげらと嗤った。中には灰皿や紙くずなどを投げつけて来るものも居たが、私は構わず、床に落ちた埃の粒を指で拾い始めた。