特別編11.あらしのよるに

 台風が来た日。自分の予定を少し早めに切り上げて妻の職場の近くまで迎えに行く。妻の仕事も普段より早く終わりになり合流して帰る。この時点ではまだ雨はそんなに降っていなかったが帰りの電車は普段と比べてずいぶん空いていた。家から出ずに過ごすひとが多かったのだろう。

 妻と一緒に一旦帰宅してから僕ひとりで外に出て必要な食べ物やら飲み物やらを一式買い揃える。そこまで済む頃には雨風ともにずいぶん激しくなった。

 深夜になると外からは普段あまり耳にしないような音がひっきりなしに聞こえ続けていた。カーテンをめくって外を見てみると家の前の電柱がぐらぐら揺れていた。家は4階なので浸水するようなことは恐らくないだろうがあの電柱が倒れたりしたらただでは済まないかもしれない。
 
 妻も怖くて眠れない様子だった。お腹が空いて仕方ないということなのでお湯を沸かしてカップのトムヤムフォーを食べた。非日常の中で食べるカップ麺というのはどうしてあんなに記憶に残る味をしているのだろう。かのカップヌードルが「あさま山荘事件の時に警官が食べていたから」という理由でヒットしたのも頷ける話だ。
 
 自分が子どもの頃、台風が来て大人が慌てていると、その様子をちょっと楽しんで見ていた覚えがある。ふだんは強くて立派な大人たちが、いっそう強いものに直面して焦っているのを見ると、まるで映画の中にいるようだなとわくわくしてしまったのだ。あと学校が休みなったら嬉しいなあ、とも。

 だけれど妻が妊娠して、弱い者が家にいる状態、という立場に実際立ってみると、当時の大人たちの慌てぶりが痛いほど理解できた。悪いことは何も起こらないで欲しい。早く通り過ぎてほしいと気象庁の雨雲レーダーをずっと追っていた。朝を迎えて晴れた空と、普段とそれほど変わらない街の様子を見ると、--大きな被害が出た地域もあるのでこういう言い方に少し抵抗はあるのだけど--本当にホッとした。
 
 
 この時期。お互いの身内に妊娠のことを話した。みんなが喜んでくれた。いちばん大きなリアクションをくれたのは上の弟だった。弟のところにも生まれて間もない子どもがいて、電話をしたのはちょうど寝かしつけているタイミングだったのだけど、「赤ちゃんがいる」と僕が伝えると弟は思わず声を上げて、電話口から驚いた子どもの泣き声が聞こえてきた。弟は「ごめん、ごめん」と言って子どもをあやしながらも、「おめでとう」「嬉しいなあ」と何度も言ってくれた。
 
 良かった。
 あなたはみんなに歓迎されて生まれてくる。
 そのことが僕はとても嬉しいよ。
 
 
 赤ちゃんはもう温度だとか外の振動を感じ取れていたそう。大きくなっているだけではなく自分の身体の外の世界と繋がり始めている。羊水を飲んで呼吸や消化の練習も始めたのだという。

 えっ、呼吸とか消化って練習してできるようになるのか。意識的にやっているのではないにせよ、お腹の中にいる時からもう練習という概念があるのか! これは僕にとって結構驚きだった。

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