ここに石がある。
立方体に切り出された石だ。
表面は白くざらざらした石だ。
ちょうど手のひらに収まるサイズの石だ。
大きめの角砂糖のような見た目をした石だ。
とても不思議な石だ。
ひとさし指で撫でるように触れると鈴のような音を鳴らす。
親指の腹をぐっと押し付けると古い扉が軋むような音を立てる。
すこしの水で湿らせてからこすれば林檎を齧った時のような瑞々しい音を発する。
今から三十年ほど前に初めて発見されたこの物質は『音の石』という通称で呼ばれており理屈の上では扱い方次第でこの地上に存在するあらゆる音を出せるといわれている。楽器として用いられることもあるが芝居やイベントの際に音響装置として使われることの方が多い。デジタルではない自然な空気の振動を求めるひとたちからは特に好まれる。だがこの石を思いのままに扱うにはとても高度な技術と知識を要する。そのため石を扱う『石師』は今や専門職として確立されている。私自身も『石師』を目指す者のうちのひとりだ。
十九時前の波止場に立って夕陽の色に染まる海をじっと眺めて過ごした。押し寄せる波は波止にぶつかって細かな飛沫になり何度も何度もそれを繰り返し続ける。今日の私は先生に黙ってひとりで仕事をした。小さな劇団を主催する中学時代の同級生が新しい芝居の音響に『音の石』を用いたいというので私が引き受けたのだ。これは私が先生を介さずに受けた初めての仕事だった。私はまだ自分が一人前の『石師』に程遠いことを自覚しているし今回の依頼だって友人のよしみで寄せられただけで私の腕前そのものが買われたわけではないと重々承知している。それでも仕事は仕事だ。これまで学んだすべてを出し切るつもりで私は今日の仕事に臨んだのだ。だけれど今、私はこうして波止場に立ち尽くし沈んでいく太陽の前でしくしく泣いている。噛み締めすぎた唇からは微かに血の味がしている。
私は幼い頃から言葉を声に出して喋ることが得意ではなかった。気持ちや考えが頭の中に浮かんでもそれを言葉に変換するのがひとと比べてずいぶん遅いのだ。だから時間を充分に掛けて手紙や日記を書くことはできても目の前にいる相手が喋った言葉に対しその場ですぐに適切な言葉を投げ返すということはすごく苦手だった。これまで出会った友人たちの中には私の遅いペースに合わせてゆっくりと会話をしてくれるひともいたが、それはそれで気を遣われていることが分かり惨めな気分になったし、三人以上の会話になればついていくことができず置いてけぼりになった。言葉の扱いが遅いせいでみんなと同じ速さの中を生きることができない。そのことを私はずっと不自由に思い続けてきた。
そんな子ども時代を過ごしてきた私にとって中学生の時「部員の数が足りないから」と誘われ入部した演劇部で『音の石』と出会えたことは大げさではなく革命的だった。もちろん当時は技術も知識もまったく持ち合わせておらず簡単に出せる数種類の音だけしか鳴らせなかったのだがそれでも言葉よりはずっとまともに扱うことができた。言葉ではなく石が発する音を用いることによって舞台上で演じる仲間たちのことを引き立てる音響の役割には楽しさを覚えた。それまでどんな会話をしても置いていかれるばかりで不自由さを感じていた私がみんなと同じ速さで流れる時間を共有できたからだ。この石をもっと上手く扱えれば私はきっと自由になれると思えた。
『石師』を将来の夢に定め高校時代は練習に励んだ。とはいえこれだけ小さな石からあらゆる音を生み出すのだから本格的な技術の習得はもちろん簡単ではない。失敗だって数え切れないほど重ねた。雪を踏む音を出そうとして蝉の泣き声が鳴ってしまったこともあった。硝子のコップを叩く音を出すつもりが車のエンジン音になってしまうこともあった。独学であってもできることは増えるが、できることがひとつ増えるたびにできていないことが幾つも顕になり喜びよりも悔しさや不甲斐なさを感じることが多かったように思う。
職業として通用する水準まで技術を高めたいと思い高校卒業後は先生に師事した。『音の石』が発見されてからのわずか三十余年で『石師』が職業として認知されるようになったのは当初からこの石の可能性を信じてきた現役の『石師』たちが研究と技術の研鑽に注いだ心血の賜物だ。先生もまた最も長くこの石に触れ続けてきた『石師』のひとりだった。そんな先生のもとで私は自分の技術が日に日に向上していくのをはっきりと感じることができた。仕事の際には同行させてもらいアシスタントも務めた。簡単な仕事であれば私だけで客先に向かわせてもらえることも徐々に増えてきた。
にもかかわらずここ半年ほどはずっと不満だった。おそらく贅沢な不満なのだと思う。「自分の言う通りにすれば優れた音が出せる」と先生はたびたび言う。そして実際指示されたとおりに石を扱えばお客さんが求めている以上の音が私の手でも出るのだ。だけど私はその形に満足できなかった。白い塗り絵を目の前にして自分の好きな色を塗ることを許されず「ここはこういうふうに塗りなさい」と言われているような不自由さを感じた。私は不自由さを嫌い自由になるために石を触り始めたのだ。それなのに今は技術を磨けば磨こうとするほど不自由さを感じる。こうした状況を打開したいと思った。だから私は今日、先生を介さずにひとりで仕事を受けた。
結果は散々だった。依頼をくれた中学時代の同級生は当時同じ演劇部に所属していた仲間だったので私が酷い失敗を繰り返しても「そんな時もあるよ」とか「元気だして」といったふうに当時と同じ態度で以って励ましてくれたのだが曲がりなりにも今はお客さんだ。今日の私はお客さんから励まされなければいけないほどの酷い出来だった。悔しさのあまり家にまっすぐ帰ることもできず十九時前の波止場に立って水平線の向こうに沈んでいく夕日を眺めながら私はしくしく泣いた。こんな悔しさを感じたことは過去にいちどもなく気づけば私は言葉にならない叫びを上げながら海に飛び込んでいた。海水の中は暖かく塩辛く私がこれまで『音の石』を使って発したどの音とも違った音が聞こえた。悔しさの味と自由の音だと思った。
あとがき
このお話のモデルになってくださった音響の仲根綺乃さんからコメントをいただきました。
私は24年間、大人に対して『なにくそ精神』を持ち、大人の波に揉まれて培った『サバイバル能力』でここまで来れた気がします。
どちらかといえば大人と過ごす時間が多く、人に恵まれた事もあり自分の進みたい音響の道をゆっくりですが一歩ずつ進んでこれました。
「石師」の彼女は私の過去の姿です。
大切な思い出、宝物、、相棒です。『過去の自分に恥ずかしくないように生きていこう。音響を続けていこう』
私が常に心掛けていることです。
未来は過去を変えられると聞いたことがあります。今の私が出来るのは素敵な音で空間を満たせる音響さんになること。【石師の彼女】が立派な石師になれますように。