二十時過ぎにマンション五階の自宅に辿り着き玄関のドアを開いたら甘辛い匂いがした。カウンターキッチンに立つ同居人のナミキは駅前のスーパーマーケットでヒラメが安かったので買って煮付けにしたと嬉しそうに言う。私は部屋着に着替えてから冷蔵庫冷蔵庫で冷やしておいた発泡酒を二本取り出してナミキと乾杯した。互いの職場であった出来事や週末の予定について話しながら小骨を除けつつ白米と一緒にヒラメの煮付けを食べる。そういえば来月はこの賃貸の更新月だと会話の中でナミキが言ったので私は頷いた。この部屋でナミキとのふたり暮らしを始めたのは私たちが大学を卒業した二十二歳の時なので来月でちょうど十年を迎える。ダイニングのテレビは点いており液晶画面の向こう側では恋愛禁止のアイドルたちが「恋とは何だ、愛とは何だ」と歌う。
私はこれまで恋をしたことがない。皆と同じように学校に通い皆と同じように就職して皆と同じように働いてきたが恋だけは皆と同じようにすることができなかった。恋とはいったいどんなものだろう? 高校時代の同級生は恋をしてから寝ても覚めても相手のことばかり考えてしまい試験勉強に支障をきたしたと嘆いていた。コンピューターウィルスが持ち主の意思とは関係なく機械の動作を支配するように誰かを好きになる気持ちが自分の思考を狂わせるようになったらそれが恋なのだと職場の上司は語った。ある友人は相手の心や身体や未来を自分のものにして独占したくなる気持ちが恋だと力説した。昨年結婚した大学時代の先輩は自分の人生の半分を捧げても良いと思える相手に出会うことが恋なのだと言った。私はいずれも感じたことがない。
ナミキとは大学時代に所属していた旅行サークルで出会った。当時から仲は良かったがふたりで出掛けるほどの間柄ではなくあくまで数十人いたサークルの仲間のうちのひとりに過ぎなかった。そんなナミキだが家族との関係に難があるということで大学を卒業し働き始めるにあたり親元を離れて暮らすことを希望していたが当座の資金が足りない様子だった。私はナミキに対し少しのあいだ一緒に暮らすことを提案した。この提案に特別な感情はなく例えるなら試験当日に筆記用具を忘れ困っている友人に余った鉛筆を貸し出す程度の軽い気持ちだった。もしもあの時ナミキ以外の友人が同じような状況に置かれていたとしても私はふたり暮らしを提案しただろう。サークルの活動の中で幾つかの地域を旅行したこともあり寝食をともにすることへの抵抗感もなかった。
そんな経緯で始まった共同生活が十年経った今でも続いている。十年も共に暮らしているのだからもちろん色々な出来事をふたりで経験した。社会人生活に慣れるまでのあいだは将来への不安を毎晩のように共有し合ったし連休があれば学生時代にしていたような旅行にだって出掛けた。共通の友人が結婚式を挙げた際には一緒に出席した。その帰り道に私が、きみ誰かと結婚したりはしないの? と訊いたら、ナミキは首を横に振り「うちは両親の仲が悪くその様子をずっと見てきたから結婚が良いものだとはあまり思えないんだ」と笑いながら答えた。料理や家事は当番制でこなした。インターネットで発見したレシピで冒険的に作ってみることも多く美味しければ喜んだし不味かった時は笑い話になった。そういうことを繰り返すうちに私もナミキも料理の腕はずいぶん上達した。
柔らかく味がしみたヒラメの煮付けをゆっくり食べ進める。小松菜の和え物や味噌汁も口に運んでいく。私が食べ終えた時にはナミキの皿も空になっていた。ふたり暮らしを始めて間もない頃は決まって私のほうが先に食べ終えていた。けれど今では同じメニューを完食するまでに費やす時間がほとんど同じになった。両手を合わせてごちそうさまを言ってから美味しかった旨を伝えるとナミキは嬉しげに目を細めた。テレビの画面の向こう側では恋愛禁止のアイドルたちが「恋とは何だ、愛とは何だ」と歌い続けている。私は恋をしたことがないが愛のことなら少し知っている。愛へと至る道筋は幾つもあり恋を経る道はそのうちの一筋でしかないのだろうと思う。テーブルの上を片付けると私たちはスーパーマーケットの広告チラシを広げた。明日は私が食餌の支度をする晩なのでなにか食べたいものはあるかとナミキに質問した。
あとがき
「家族を持つ。誰かと暮らす。孤独ではなく生きる。それらを手にするためには、恋を経ないといけないのでしょうか?」そんな声から生まれたお話です。
2020/2/8/辺川銀