陣痛は夜にきた。タクシーで病院に向かった。妻は診察を受ける。そのあいだ僕は待合室で待った。待合室は新生児室の前にあり数日以内に生まれた子達の泣き声がガラス越しに聞こえた。その声の力強さとこれから妻とお腹の中の赤ちゃんに起こることを想像して既に泣きそうになるがまだ早いと堪える。妻の診察が終わると陣痛室に呼ばれた。夜のうちに生まれることはない見込みとのことで妻は入院し僕ひとりだけ一旦帰宅した。あまり眠れなかった。
翌朝病院に向かう途中で「今日生まれる」と妻から連絡が入った。陣痛室につくと妻は昨晩よりもだいぶ痛そうにしており僕以上に眠れていない様子だった。思いのほか早く進み明るいうちに生まれそうとのこと。定期的にやってくる陣痛のたびに身体を擦ったり押したり呼吸のリズムをカウントしたりする。「あとすこし」という段階になってからはずいぶん長く感じた。恐らくピークに達していたのだろう痛みの中で「赤ちゃん大丈夫ですか!」と妻は叫んでいた。
妻はもともと痛みに強くない。十代の頃から大きい手術を繰り返した。身体の中には今も骨を固定するための金属が入っている。「私はもう一生分痛い思いをしたから、もうこれ以上痛いのは嫌だな」と言っていたこともあった。その妻が「子どもは自然に任せよう」と言ったのが昨年の春の終わり頃だった。本当に本当によく考えて、決意を持って望んだ妊娠だったのだと、自分よりも赤ちゃんを心配する妻を見て思った。
お昼過ぎ。赤ちゃんは無事に生まれた。妻のお腹の上に赤ちゃんが置かれた。十ヶ月間ずっと近くにいた。ようやく顔を見れた。その手足でお腹の内側から叩いていたんだね。ずっと繰り返していたしゃっくりはその産声を上げるための呼吸の練習だったんだね。声が聞こえた瞬間に僕も泣いてしまった。だめだな僕は。泣き顔同士の初対面になってしまった。妻と赤ちゃんとのツーショットを撮った。妻はすごくきれいな笑顔をしていた。
妻に何度もお疲れ様とありがとうと繰り返して一旦退室する。待合室で待っているあいだずっと泣いていた。大人になってからあんなに泣いたのは初めてなんじゃないだろうか。涙が落ち着いてきたタイミングで助産師さんに連れられて赤ちゃんがやってきた。さきほどの初対面よりもむくみが取れてすっきりした顔をしている。助産師さんに渡されて腕に抱いてみる。きょろきょろと周囲を見回している。こんにちは。よく頑張ったねと声をかける。何度も名前を呼ぶ。
助産師さんに赤ちゃんを預けてから妻のところに戻る。産後の処置を終えたばかりなので二時間ほど動けないとのこと。動けるようになるまでその場でふたりで過ごした。お疲れさま。お腹すいたね。出産時のために用意しておいた無印のバームクーヘンは食べる余裕なかったね。赤ちゃん可愛いね。身内に連絡した? 本当に無事で良かった。明日は何時に来ようか? すごく頑張った。立派なママだね。赤ちゃんも頑張った。三人家族になったね。本当にお疲れさま。そんな話を延々としていた。
娘へ
「将来あなたに読んでもらえたら良いな。あなたがこんなにも望まれて生まれてきたんだっていつか伝えたいな」そんなふうに思って、ママの妊娠が分かってからこの日記を書き続けてきました。
ママのお腹の中で、あなたが小さい心臓を動かしていたこと、一生懸命手足を曲げ伸ばししていたこと、ママのお腹を内側からポコポコ蹴っていたこと、寝たり起きたりを繰り返しては夢もみていたこと、呼吸の練習をしていたこと、大きくなっていくママのお腹越しにずっと見てきました。
そんな小さな成長のひとつひとつが、僕らをどんなに幸せにしてくれたか。何よりも無事に生まれてきてくれたことがどんなに嬉しかったか。あなたもママも一生懸命だった。決して簡単に生まれてきたわけじゃなかった。だからこれから何があっても、生きているだけであなたはすごいです。呼吸を続けてくれるだけで本当にかけがえがないです。
結構長く書いてしまったから、あなたがこれを読んでくれるのはきっとずいぶん先になると思う。その時には、日々の中で大変なこともあるかもしれないね。でもそんな時に、生きてるだけであなたはすごいんだって思い出してほしいし、伝えていきたいと思うよ。
改めまして、生まれてきてくれてありがとう。本当にありがとう。これからよろしくね。
妻へ
お疲れさま。何度も何度も伝えたけど、本当にお疲れさま。そしてありがとう。
四年前の今頃は新婚旅行だったね。弾丸日程でカープの試合を三つも見に行った。宮島では雨が降っていたね。そこで僕が食べた牡蠣にあたったりもしてしまった。その時にはこんな日を迎えるなんて想像してなかったね。
あなたはきっと立派なママになる。妊娠中もそうだけれど、出産に立ち会ったことで強くそう思った。自分がいちばんつらい時間でも赤ちゃんのことを心配していたね。知り合ってからそろそろ七年になるけど、これまででいちばん格好良かったです。
ひとつだけ、これも直接伝えたことだけど。
娘が生まれたことで、あなたにはママという役割が新たに加わりました。けれど僕にとって、恋人でもあり友達のようでもある何より大切な妻という部分や、わがままで気まぐれな猫みたいなひとという部分がなくなったわけでは決してないのです。
どうかひとりで背負いすぎずに。自分ひとりで「ちゃんとしなきゃ」と思いすぎないように。
夕飯後に甘味買ってきてほしいとか、駅まで送り迎えしてとか、カフェオレ淹れてほしいとか、あれ取ってこれ取ってとか、今日はもう寿司しか食べたくないとか、全然言ってください。突然面白い歌を口ずさんだりとか、踊りだしたりとか、そういう自然体で明るい部分も本当に大好きです。
ふたりで七年間、紡いできたこの関係が僕にとって何よりの宝物です。それを大事にしつつ、新たに娘も一緒に、楽しくやっていきましょう。
これからもよろしくね。