愛おしいから骨さえ残らない

 砂浜を歩いた。年上の恋人と一緒に。彼はスーツを着ていた。仕事帰りだから。波の音が聞こえた。磯の香りがした。結婚しませんか? 恋人はわたしに尋ねた。大きな波が来た。防波堤のテトラポットにぶつかって壊れた。白い細かな飛沫になって消えた。少し待ってほしい。わたしは恋人に応えた。ひとりで帰路に就いた。電車は空いていた。窓の外を見た。海と夕陽が見えた。わたしは自分の左手首を見た。銀のブレスレットをしている。ブレスレットには大粒の真珠が六個埋め込まれている。それをひとつずつ指先で触った。
 
 帰宅した。居間にはパパが居た。静かな顔をしていた。頬は桃色だった。お酒を飲んでいた。ママはそろそろ死ぬ。パパはそう言った。わたしは頷いた。わたしは階段を登った。ママの部屋に入った。ママの部屋にはベッドがない。代わりに水槽がひとつ置かれている。浴槽ほどの大きな水槽だ。ママは水槽の中で膝を抱えている。服は着ていない。ママの額にわたしは手を触れた。五十一歳。顔や身体には皺も汚れもない。綺麗な容姿をしている。だけど皮膚は硬い。ひんやりとして冷たい。軽く叩くと澄んだ音がする。わたしのママは貝だ。

 わたしのママは貝なのだ。だからわたしもそのうち貝になる。娘のわたしもいつかは貝になる。現在二十歳。今のところは人間の姿をしている。だけどあと五年も経つと身体が徐々に貝に変わり始めるだろう。三十歳ぐらいで普通のひととは明らかに違ってくる。皺は出来ない。皮膚はたるまない。逆に硬くなる。三十五歳になるとベッドで眠ることが出来なくなる。水に浸かれないと眠ることが出来ない身体になる。この年齢を過ぎると子どもを産むことは殆ど出来なくなる。変化を終えて完全な貝になってしまうのは四十歳ぐらいだ。完全な貝になると身体は動かない。喋ることも抱き合うことも出来ない。そしてだいたい五十歳ぐらいで死ぬ。これが貝の一生。わたしたちの平均的な一生。

 ママが死んだ。お通夜をした。お葬式をした。遺影はママが貝になる前のものが使用された。今とそれほど顔は変わっていない。ママの死体は少しも動かなかった。膝を抱えて座ったままの姿勢。硬くてひんやりしていた。貝として生きていた頃と少しも変わらないように思えた。本当に死んでるの? わたしはパパに何度か質問した。パパはその都度わたしに答えてくれた。本当に死んだらしい。ママの身体を火葬場に送った。ママの身体を焼いた。熱い炎で焼いた。貝殻はすべて焼けて灰になった。骨は残らなかった。貝には骨がないから。代わりに真珠が一個残っていた。大粒の真珠だ。わたしはそれを骨箸で拾った。そして自分の左手の上に乗せた。真珠はひんやりとしていた。炎の中から出て来たばかりなのに。

 真珠は痛みの結晶だ。火葬場を出るとパパはわたしに言った。貝の身体に小さな異物が入る。例えば砂粒。例えば海の塵。例えば微生物。或いは悲しい出来事。入り込んだ異物は貝に対して強い痛みを与える。だから貝は痛みを和らげるために体液を固めて異物を覆ってしまう。痛くないように。辛くないように。異物の存在を思い出さないように。自分の身体の中で。長い時間を掛けて。そうして出来た体液の結晶が真珠だ。だから真珠は痛みの結晶なのだ。パパはわたしに言った。火葬場を背にして。

 海沿いの道を歩いた。年上の恋人と一緒に。彼は今日もスーツ。今日も仕事帰り。結婚しませんか? 恋人はわたしに尋ねた。前回と同じように尋ねた。わたしは銀のブレスレットをしている。ブレスレットには大粒の真珠が七個埋め込まれている。わたしの身体もいずれ真珠を作る。そういうふうに出来ているからだ。ただし真珠が大きくなるには長い時間が掛かる。その日が来るまで生きていなければいけない。いつか貝になっても。結婚しましょうか。わたしは彼に言った。

 

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