わたしはうつくしい。
鳥が弱ってしまった。わたしたちが結婚をした時に飼い始めた鳥だ。もう三日も何も食べていない。無理に何かを食べさせようとしても吐き戻してしまう。止まり木の上で目を閉じてずっとうなだれている。新緑みたいに鮮やかだった羽根もずいぶん色あせてしまった。あとわずかしか生きられないだろうと獣医には言われている。夫は今朝もいつものように銀色の鳥かごの中に置かれている餌入れと水入れの中身を新しくしてから会社に出かけていった。鳥が死んだら夫はこの習慣をやめなければいけないだろう。
わたしはうつくしい。
「いきものにはそれぞれ、生まれながらに与えられた機能があると思う」はじめて入った喫茶店で味の薄いコーヒーに口をつけながら名前も知らない男にむけてわたしはそう話した。「与えられた機能は、そのいきものが生きていくために必要な機能だ。鳥が空を飛ぶのも、犬の鼻が利くのも、魚が泳げるのも、どれもいきものが生きるために与えられた機能だ。だから与えられた機能を使わないでいたら、いきものは生きることから遠ざかって、弱っていってしまう。わたしの鳥が元気をなくしたのも、鳥かごの中に入れて空を飛ばさずにいたせいだろうと、わたしは思っている」小さなテーブルを挟んで向き合った男は、静かな表情でわたしの話を聞き、小さく笑みを浮かべた。
わたしはうつくしい。
そしてまだ若い。
夫が会社に出かけていったあと、わたしは普段と同じように家の中を掃除し、洗濯物をバルコニーに干した。天気はとても良かった。リビングのソファに腰をおろし、先週買った小説を数ページ読み進めた。それはわたしが学生の頃から好きでいる作家が書いた小説だったのだけど内容がほとんど頭に入ってこなかった。読書を中断すると、鳥かごのある部屋に行って、窓を開けた。暖かい風が室内に吹き込んで気持ちが良いなと感じた。それからわたしは銀色の鳥かごの扉も開け放した。すると、鳥かごの中で頭を垂れていた、もう何日かしか生きられないだろうといわれていた鳥は、ふっと目をひらき翼を大きく広げて、止まり木から飛び立ち、鳥かごの入り口も部屋の窓枠もあっという間に越え、よく晴れた空の向こうへ飛んでいってしまった。その姿がすっかり見えなくなると、わたしは窓も、鳥かごの扉も閉じないままにして、出かける支度をした。
わたしはうつくしい。生まれたときからずっと。
そしてまだ若い。
「夫がわたしを抱けなくなってからどれだけ経っただろう」はじめて入った喫茶店で空になったコーヒーカップのふちに唇をつけながら名前も知らない男にむけてわたしはそう話した。「いきものにはそれぞれ、そのいきものが生きていくために必要な機能が与えられており、もしもその機能を使わずに過ごせば、生きることから遠ざかる気がする。そしてわたしがうつくしいことは、わたしといういきものに与えられた機能なのだと思う。だけどわたしの夫は、わたしがわたしのうつくしさを使うために必要な機能をすでに失くしてしまった。だからわたしはいま、自分が、空を飛ばずに弱っていったあの鳥と同じように色あせてしまうことを、とても怖れているんだ」
「それで。あなたはどうしたいの?」名前も知らないその男は、小さなテーブルの上に置いたわたしの手の上に、手を重ねて、それからそっと尋ねた。「あなたは何かを手放さなければいけない。だけど手放すものと、手元に残すものとを、あなたは自由に選ぶことが出来る」陶器のように澄んだ声で、男はわたしに言った。
わたしはうつくしい。
暗くなってからわたしは家に帰った。玄関には先に帰宅した夫の靴が脱いで置かれていた。鳥かごのある部屋に夫の姿はあった。部屋の窓も、鳥かごの扉も、わたしが出掛けたときと同じで開いたままだった。銀色の鳥かごの中の底面では、わたしたちが結婚をした時に飼い始めて、今日の昼間、青空に向けて飛び立っていったはずの鳥が、横たわった姿勢で息を引き取っていた。窓の外からは夜の風が吹き込み、夫は鳥の亡骸をしずかに見つめていた。わたしと夫はお互いの手を握り合いながら、しばらくのあいだ、声をたてずに泣いた。