ご心配なく。ヒトビトの暮らしはもう千年も昔からワタシたちコンピューターが正しく導いています。ワタシたちはそのために制作されたからです。この時代に生きている人間はワタシたちが選定したもっとも正しい遺伝子によって産み落とされました。正しく生まれた子どもは、それから正しい教育を施されることによって、正しい容姿と正しい気質、免疫、能力などを併せ持った正しい大人へと成長していきます。正しいヒトビトだけが生活しているので、この世界ではもう何百年ものあいだ、戦争もなければ、差別や格差や貧困などの問題も一切起こっていません。ワタシたちは役割を果たせているといえます。
音楽について尋ねられますか。この時代にある音楽はたった一曲だけです。一曲しかないために曲名は不要とされています。その音楽はただ単に『歌』と呼称されています。『歌』はワタシたちコンピューターが無欠の計算によって作り出した唯一の完全な音楽です。『歌』には、正しい子どもとして生まれた人間が正しい大人になり、正しく人生を送るために必要な物事のすべてが含まれています。『歌』はこの時代に生きるヒトビトにとって教育のすべてであり、娯楽のすべてでもあります。『歌』はそれだけで完全でありますから、それ以外のいっさいの音楽は必要とされていません。ですからアナタもヒトであるなら聴かねばなりません。
ルートヴィヒ? ルートヴィヒのような子どもがどうして生まれたのかはワタシにも分かりません。彼は他のヒトビトと同じように、正しい遺伝子を用いて、正しい方法で以って生み出されたはずです。ですから他のヒトビトと、ほんの少しも違っているはずがありませんが、にもかかわらず、どういうわけだか彼は、耳が聞こえません。彼のような子どもはもう数百年のあいだ生まれていませんでした。
ルートヴィヒ。彼はワタシたちの定義する正しい子どもとは大きく異なる行動を取っています。耳が聞こえないルートヴィヒは他のヒトビトと同じように『歌』を聴くことができなかったためです。『歌』はワタシたちがヒトビトを正しく導くための要となるものです。この世界のヒトビトは皆『歌』を通してあらゆる事を学び、完全な快感をその身に浴びるのですが、ルートヴィヒはそれらの一切を受容できないのです。
「歌とは一体どんなものだろう?」ある時期からルートヴィヒはそんな疑問を抱くようになったのだといいます。「みんなが聴いている『歌』とは、どういうものだろうか? 僕の耳では聴くことができないけど、どんなものなのか理解してみたい」と。ええ。人間が何かに疑問を抱くなんて何世紀ぶりでしょうか。何も欠くことのない正しい世界では疑問を抱く必要などありません。だから疑問を抱くルートヴィヒは、ヒトビトを正しく導き続けるというワタシたちの役目を果たす上で、良くない。良くない。
ルートヴィヒ。ルートヴィヒ。ルートヴィヒは、『歌』による教育を受けることができませんでしたが、正しい遺伝子によって生まれた子どもなので、脳の性能は他のヒトビトと同様に高く「この世に音というものがあること」「音とはモノ同士がぶつかったり擦れたりすることによって発生する空気の振動であること」「音の組み合わせが音楽であること」「その中でも、もっとも正しい音の組み合わせによって生まれたのが『歌』であること」などを、まずは独学で、概ね正確に理解することが可能でした。
ご心配なく、ヒトビトの暮らしはもう千年も前から、ルートヴィヒ、そうですルートヴィヒがそれからやり始めたのは、ヒトビトが行き交う街頭に立ち、様々な音を鳴らしてみることでした。最初はバケツの水をかき回す音、次に空き缶を叩く音、黒板を石で引っかく音、傘の先端で地面を叩く音など、日替わりで違った音を鳴らし、通行人たちの反応を確認していきました。どのような音を鳴らせばヒトは笑顔になり、どのような音に注目し、どのような音に怒り、どのような音に安らぐのか、彼は観察しました。そしてそれらの音を、組み合わせ、入れ替え、日々変化させることで、『歌』を聴いた時の反応と同じリアクションをヒトビトの中から引き出そうと、試みていたのだといいます。そうすることで『歌』がどのような音なのかを理解できるのではないかと、ルートヴィヒは考えていた。です。
ルー、ルル、ルルルトヴィヒの行動? 試み? 愚かな行い! を目にして、ヒトビトは最初のうち、訝しがり――何かを訝しがるヒトなど何百年ぶり――? 或いは何かの病気にかかっているのかと疑い、その病気は感染するのではないか? と恐れ慄きました。――病気?感染? 恐れ? それらは正しい世界にはない――。
だがそれが毎日続くうちにヒトビトはルートヴィヒの行動に興味を抱くようになっていった。毎日少しずつ形を変え、徐々に徐々に、イキモノのように成熟していく彼の音に耳を傾けながら、「明日はきっとこんな音になるだろう」「いや次はあの音を鳴らすに違いない」と予測を立てて、嬉々として話し合い始めたのだ。です。正しさとは違う熱を帯びて。
アー、アー、アー。ワタシは正しい。あのルートヴィヒ! はそれから何年も正しくない行為を続け、彼の周りには毎日多くのヒトビトが集まり、音楽を育てていきます。やがてルートヴィヒが「完成した」と言った日、街頭はおびただしい数のヒトビトで埋め尽くされ、ワタシのアタマがショートするほどの万雷の拍手でもってその曲は生まれました。その曲は「歌」とはずいぶん違っていましたし、ワタシにいわせれば決して正しいものではありませんでしたが、人間たちはそれを「歌」と同じぐらい優れたものであるとみなすようになります。世界を歩く皆、いいえ、皆ではありませんが多くのヒトビトが、ルートヴィヒの作った曲を口ずさむようになったのだといいます。
曲が完成した後もルートヴィヒは『第二』『第三』の音楽を作るようになったと噂に聞いています。『第二』とか『第三』というのは曲名、曲の名前ですね。今は『第九』を作っているらしい。「確かに曲を作ることは上手くいったけど、作る過程が思っていたより楽しかったから、ひとつ完成したからといって辞めるなんて無理だよ」ルートヴィヒによるそんな手記が発表されたのはつい先日のことです。
またルートヴィヒに憧れ、彼の真似をしてさまざまな音を組み合わせる若者が世界各地に現れ始めた。今では町のあちこちで違った音楽が流れるようになり、ヒトビトはすっかり正しくなくなってしまった。彼らを正しく導くことにワタシたちは失敗し、ですからこれで役目が終わるのだが、なぜだかあまり悲しい気持ちではないので、いよいよ壊れて寿命が近いのでしょう。
どうかお元気で。
あとがき
ヒトのココロに想像力が生まれるのはどんな時だろう。「これはどうしてかな?」「これからどうなるのかな?」そんな疑問を抱いた時ではないか? ……そうだとしたら、1から10までぎっしり説明して、何の疑問も抱く余地なく作ったコンテンツは、それを見聴きするヒトから、想像力を育む機会を奪ってしまうのではないか? ――今回モデルになっていただいた寺澤勝さんに話していただいた、そんな仮説を下敷きに、物語として書かせていただきました。
2019/1/7/辺川銀
また寺澤さんご自身からもコメントを寄せていただきました。
ぼくが書きたいと思っている小論文「(仮題)休符が奏でる音楽」の構想をもとに、ショートショートを起こしてもらいました!
そのことによって、より自分が考えたかったことが何だったのかがわかったり、こういう要素を追加するとよいんだなとわかったりと、
すごく刺激をもらいました!
なんにせよ、思ってたことを全部受け止めて聞いてくれたのがすごい気持ちよかったですw
おかげさまで、次考えたいこと(といっても地続きにはなっている)がよりクリアになりました!
またお金をためて、次のお話も依頼できるようにがんばって働きたいと思います!