少年アポロの見た宇宙

▲テレビ画面に映るスペースシャトルは空に向けて突き立てられたナイフのような形をしていました。そこに乗りこむ五人の飛行士たちはいずれもカメラに向けて手を振りながら柔和に微笑みます。だけど彼らがこれから臨むのはこの星の運命を左右する重大任務です。テン、ナイン、エイト。打ち上げに向けたカウントダウンがいよいよ始まります。

 みなさんご存知のとおりこの星はもう百周季ものあいだ雨がいっさい降っておらず水不足により危機的状況にあります。以前は星を覆うほどの雨が定期的に降っていたそうですが、ぼくを含めいまこの星に生きているひとのほとんどは本物の雨を目にしたことがいちどもないのです。治水のために街のいたるところに張り巡らされた水路も、ぼくが知るかぎりずっと乾いたままです。セブン。

 いうまでもなく水というのは生き物が生きていくうえで不可欠な飲料であり文明における主要なエネルギーでもあります。その水が、いよいよもって枯渇しているのが今のこの星です。このままいけば現代の文明はあと十周季も持たずに滅亡するそうです。シックス。

 そんな状況のなか学者たちが注目したのが遥か遠く遠く星の彼方にあるという未知の水源でした。シャトルを飛ばして水源から水を持ち帰ることができれば文明の滅亡は免れるのだといいます。かくして水源をめざすシャトルは建造され、選ばれた五人の飛行士たちを乗せて今まさに打ち上げられようとしているところです。ファイブ。

 この任務に失敗は許されません。なぜならシャトルを飛ばすためにもエネルギー、すなわち水が必要だからです。もしも今回の打ち上げが失敗に終われば、同じものをもう一度飛ばすだけの水が、もうこの星には残っていないのです。だから五人の飛行士たちはこの星で暮らしているすべてのひとびとの期待と不安と命運を背負ってシャトルに乗り込みました。笑顔で乗り込みました。フォー。

 そんな飛行士たちの姿にぼくは憧れます。大人になったら彼らのようになりたいという思いで胸が高鳴ります。たくさんのひとを救うために働くヒーローのような大人になりたいと。前人未到の未知の世界に飛び込んでいける大人になりたいと。スリー。ツー。ワン。

 「この星の未来は明るくない」「滅びゆくばかりだ」ぼくらの世代はそんな言葉を物心ついたころから聞かされてきました。だからこそ、あの飛行士たちのような格好いい大人が存在していることは、ぼくら子どもにとって大きな希望なのです。ゼロ。▼

 リオは五歳の息子のことをいつも心配している。息子の名前はアポロ。人類史上初となる月面着陸をなしとげた宇宙船にあやかり、広い世界に飛びたてるひとになってほしいという願いを込めて名づけた。にもかかわらずアポロは今日も公園にたどりつくと、滑り台の下に黙って駆けていき、そこの地面をじっと眺めている。何もない地面だ。子どもが好むタンポポやシロツメクサが生えているわけでもない。

 降園ではアポロと同じ幼稚園から降園してきた子どもたちが、アポロと同じ制服姿で、宇宙飛行士とかアイドルとかヒーローとかの真似事をして遊んでいる。「大きくなったらおれも宇宙に行きたい」「サッカー選手になりたい」「恐竜博士になりたい」なんて声も聞こえてくる。

 だけどアポロは地面を見ているだけだ。誰とも話さず。走り回りもせず。来る日も来る日も滑り台の下で地面だけを見ている。内向的な性格というには行き過ぎだと思う。それに口数もあまり多くない。知能や発達の面でなにか問題があるのではないかとリオは心配している。幼稚園の担任は「心配なようなら区の支援センターに相談してみると良いですよ」と言うのだけど、もしも本当に問題が見つかったらどうしよう、と考えると、それはそれで足が遠のいてしまう。心配しているくせに現実と向きあう勇気は出ないのだ。わたしはだめな親だ。

 気温が高い。この公園の滑り台は三ヶ月ほどまえに作られたばかりの新しいもので、銀色の滑り面は初夏の日差しを反射してぎらぎら光っている。アポロがしゃがみこんでいる場所はちょうど滑り台の陰になっているが、あの子は大人に言われないと水を飲まないから、熱中症にならないよう注意しないといけない。アポロの肩からかかっている黄色い水筒の底が地面についているが、本人はまったく気にする様子がない。

 大切な我が子なのだ。どんな問題が見つかろうとも愛する気持ちに決して嘘はない。だが果たして、この子はきちんと生きていけるのだろうかとリオは心配する。学校に行ったり仕事をしたり、他者と心を通わせたりすることができるのだろうかと心配する。あるいは何かの拍子に抑圧されていた感情が爆発して他者に危害を加えやしないかと心配する。滑り台の下で地面を凝視する我が子の、丸い背中を眺めながらリオは心配している。

▲希望が崩れていく。テレビ画面の向こう側で希望が崩れていく。赤い炎と黒い煙に包まれながら崩れていく。この星に残るすべてを注ぎ込んだシャトルの打ち上げは失敗に終わりました。カウントダウンを経たシャトルは噴射口から火を吹き、火に包まれて炎の塔となり、そのまま黒い煙に包まれてしまった。機体が持ち上がることはありませんでした。テレビのスピーカーからはガラガラとかバチバチとか、初めて聞くのに、それがシャトルの壊れる音だとはっきり分かるような音が聞こえました。アナウンサーは言葉を失い、その音だけがしばらく流れていました。

 数分経って画面がニューススタジオに切り替わると、五人の飛行士たちが全員脱出し、うちひとりは大火傷を負ったものの意識ははっきりしており命に別状はないのだと語られたのですが、それを告げるアナウンサーの表情は憔悴しきっていました。いよいよこの星はおしまいです。先述のとおりこの星には、再びシャトルを建造して打ち上げるだけの水が、資源が、残っていないのですから。それを手に入れる最後の手段がいま絶たれたのですから。▼

 アポロは地面を見ていた。地面を見ることがアポロは好きだった。幼稚園で仲の良いクラスのコウちゃんは夜空を見るのが好きなんだっていう。隣の席のリエちゃんは絵本を読むのが好きなんだっていう。それと同じように地面を見ることがアポロは好きだった。 

 はじめのうちはアリたちを見ていた。一匹一匹のアリが行列になったり触覚を突き合わせてコミュニケーションを取ったりして形成されていく様子に強い興味を惹かれた。そうして地面を眺め続けているうちにアポロの興味はより小さな世界へと移っていく。空に興味を持った子どもがより広大な宇宙に関心を広げていくのと同じような、自然な興味の推移で、より小さな世界、より小さな世界へとアポロの興味は移った。地面を満たす砂粒の色や形がひとつひとつ異なるということに、誰に教えられるでもなくアポロは気がついた。より小さく。より小さく。やがて無数の砂粒のなかにたった一つだけ、小さな星ともいうべき特別な砂粒があることをアポロは発見した。その砂粒の上では、大人にはとても見ることのできない、子どもでもほとんどは見ることのできない、アポロのような過剰なほどの集中力を持った子どもにしか見ることのできない小さな小さな小さなひとびとが暮らしており、独自の文明や文化を築きあげていた。小さく小さく小さかったが、ひとりひとりに心があり、働いたり、夢を持ったり、助け合ったり、喧嘩をしたりしていた。毎日変わる砂粒の星の様子を、アポロは毎日、夢中になって見つめているのである。

 なかでもアポロに強い印象を残したのは一滴の水から膨大なエネルギーを抽出するこの文明独自のテクノロジーだった。もちろん五歳のアポロにはそのテクノロジーの詳細を理解することも、ましてや論理的な言葉にして誰かに伝えることも、今の時点ではできない。だがエネルギーの抽出過程を実際に目にしたうえで「なんだか自分にもできそう」だと思った。そう思ったことこそが彼の将来を大きく変えることになるのだけど、それはまた別の機会に語るべきだろう。

 このような極めて高度な技術を持った砂粒の星の文明。しかしまさにいま滅亡の危機に瀕していた。エネルギーの源である水が手に入らないせいだ。その原因は百日ほど前にこの場所に設置された滑り台である。滑り台が設置されたことでこの場所の地面は雨が降っても濡れることがなくなり、その結果、砂粒の星は深刻な水不足に苦しんでいるのだ。

 滑り台から五十メートルほど離れた場所には水飲み場があって、前に使ったひとが蛇口をきちんと閉めなかったせいか、何秒間に一滴といった頻度で水が漏れている。砂粒の星のひとびとは望遠鏡でそれを見つけると、水道場までスペースシャトルを飛ばして、水滴を持ち帰る計画を推進し始めた。だが今、その計画は失敗に終わって、火と黒煙がシャトルの機体を包みこんでいた。多くのひとが涙する様子がアポロの目に映った。多くのひとが絶望しているのがアポロにも分かった。

 アポロは肩からさげている水筒を手に取る。水筒の底は砂で汚れていた。水筒の蓋を開けると、それをひっくり返し、なかに残っていた麦茶をこぼして地面の砂を濡らした。星を覆うほどの麦茶がとつぜん降ってきてびっくりするかもしれないが彼らは優れた治水技術を持っているからたぶん平気だろうとアポロは考えた。

 リオがアポロを呼んだ。アポロは立ち上がり「ママ」と呼び返して微笑む。「夕ご飯はハンバーグでいい?」とリオはアポロに尋ねた。エビフライがいい、とアポロは返事をした。「エビフライは昨日食べたから、今日はハンバーグにしよう?」とリオが言い、すこし不服だったがアポロは頷いた。

あとがき

「そう思ったことこそが彼の将来を大きく変えることになるのだけど、それはまた別の機会に語るべきだろう」と書きました。“それ”も、またきっと、明るく美しい物語であるはずだと思います。

2026/04/24/辺川銀

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