そして次の朝へ


 肌寒いほどエアコンが聞いているにもかかわらずわたしは嫌な汗でパジャマやシーツをグシャグシャに湿らせて目を覚ましてしまう。わたしはこんなに寝苦しいのにすぐ隣ではふたつ年上の夫が静かに眠っている。ベッドに面した窓からは地上二十階の高さから東京の町を見渡すことが出来る。都会の夜景を見ながら眠るのが好きだという夫の趣向のためにカーテンは付けていない。デジタル時計は午前の四時を示しているのであと三十分もすれば夜が明けてしまう。こんな時間にもかかわらずビル群の窓にはちらほらと灯りが灯っており航空障害灯の赤い光は寝息のようにのように規則正しく点滅をしている。その様子をぼんやりと見つめながらわたしはひとりで泣く。自分がどうして泣いているのかわたしは分からない。

 高校生の頃に交際していた男のことを時々思い出す。男は狭くて日当たりの良くない部屋にひとりで暮らしていた。正確な年齢は知らないままだったが高校を卒業した直後から仕事をしていると話していた。男は優れた容姿を持っているわけでもなければ何か特別な才覚を持っているわけでもなかった。だけれどひとつだけ秀でていたことがあった。男はわたしを傷つけることが誰より上手かった。気分次第でわたしを殴り激しく罵った。性格は嫉妬深く私が他の男性と親しくすることを厳しく制限した。一方では金で買った女性を私の目の前で抱いたりしてみせた。嫌がるわたしを無理やり押さえつけて避妊をせずにセックスしたりもした。酷い男だった。

 わたしは恵まれた女だった。生まれた時から大人になり今に至るまでずっと恵まれていた。社会的に成功した両親のもとに生まれたので経済的な理由で何かを諦めなければいけないという出来事は一度も起こらなかった。両親のみならず彼らの周囲に居た多くの大人たちからの愛情を一身に浴びせられて大切に育てられた。いじめや仲間はずれというような出来事とも縁がなかったし、試験のたぐいではそれほど苦しい思いをすることなく良い点数が取れた。独身時代にファッションモデルをしていたという母親の遺伝子を色濃く受け継いたので容姿が原因の不利益を被ったこともなかった。わたしは恵まれていた。

 にもかかわらずわたしはいつもひとりで泣いていた。泣くのはいつも自分の部屋や学校のトイレや駅のホームにひとりでいる時だった。ひとの見ているところで泣くことは出来なかったがひとりになるとすぐに泣いてしまった。どうしようもなく悲しい気持ちが不意に沸き出して涙が止まらなくなるということが毎日のように起こった。こうした感情にわたしはずっと戸惑い続けていた。何かの病気なのかと考え親に内緒で心療内科を受診したこともあったが特に治療の必要はないとそっけなく言われたのでわたしはいっそう途方に暮れてしまった。自分が何に対して悲しんでいるのかまったくわからなかった。どういう理由で泣いているのか理解が出来なかった。

 悲しい気持ちが不意に押し寄せてきて泣いてしまうことってある? 同級生にそういう旨の質問を投げかけると彼女たちの殆どは首を縦に振った。けれど彼女たちの話をよくよく聞いてみるとみんなそれぞれ自分が悲しむ理由をきちんと知っていた。両親との仲がうまくいっていないだとかテストで思うような点数が取れないとか顔のほくろの位置が気に食わないとか好きな男の子と両思いになれないとか家が貧乏だから進学を諦めなければいけないとか瞼が一重だとかアルバイト先で嫌がらせにあっただとか。そういう話を聞きながらわたしはどこかで彼女たちのことを羨ましく思った。わたしは自分の悲しむ原因を知らない。だから彼女たちのように自分の悲しみを語ることが出来ない。

 そして高校生の頃にわたしはあの男と出会った。そして付き合い始めた。男はわたしのことを少しも大切に扱うことがなかった。会えば決まって暴言と暴力を雨あられのように浴びせかけられた後に性欲の捌け口として乱暴に使用されるばかりだった。会えない時には常に浮気を疑われていたので携帯電話の通知音が鳴り止むことはなかった。なので当時のわたしはそれまでと変わらず毎日泣いていたが、あの頃の涙は理由も原因もわからないそれまでの涙とは違っていて、あの男のことをはっきりと想って憎んで悲しんで流した涙だった。あれはわたしがはじめて経験した、理由をしっかりと納得した上で流すことの出来る涙だった。

 けれどわたしが大学受験に合格して進学先が決まると男の態度は大きく変化した。もう二度とわたしのことを殴らないし罵ることもしないし他の女性に手を出すこともしない。これからは心を入れ替えてわたしのことを大切にするなんてことを突然言い出した。その瞬間にわたしはあの男に対する興味や関心を一切失ってしまった。今はどこで何をしているのかも分からないし名前や声を思い出すことも出来ない。
 
 東京の夜景を一望できる二十階の部屋で静かに眠る夫の顔を眺めながらわたしはひとりで泣く。エアコンの稼働音をうるさいと感じる。ふたつ歳上で綺麗な顔の夫。わたしの親がそうであったように社会的な成功を既に収めている優秀な夫。そして何よりわたしのことを他の深く愛している夫。誰もが羨む夫。きっとこのひとは何があってもわたしのことを大切に扱う。わたしがどんなに酷いことをしてもわたしのことを嫌いにならないし殴ったりなんて絶対しないだろう。涙はずっと止まることなく溢れ続けており夫の顔も外の景色もやがて滲み始める。わたしは夫の身体の上に跨がり首に手を掛けた。両の手に体重を思い切り乗せ喉を押し潰すようにしてぐっと力を込めた。もうじき朝が来る。
 

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