二十代前半の頃の自分ときたらとてもふらふらしていて鬱病で不眠症で死にたいとか寂しいとか消えたいとかそういうことばかり口にしていたし鈍行電車で宛もなく出掛けては長いと二十日ぐらいとか地方を本当に意味もなく彷徨っては帰ってこないみたいなことを何回も繰り返していたんだけど、中学時代からの毎日夜中にランニングする習慣だけは旅先でもやらないと落ち着かなかったので街灯がほとんどなく時折すれ違う車のヘッドライトでしか足元が見えないような暗い道でも星明かりや月明かりに頼るような昔というのは本当にあったんだなとか思いながら走って、特に今ぐらいの季節の季節だと地方の気温は都市部よりも大抵ずっと低いから空気を正しく吐き出す度に冷たい鋭いヒリヒリした空気が肺の中を満たしていき、それでも動けば汗を書くほど身体は熱を持つからその温度差には生きてる感じがすごくはっきりあった。
旅先で走るということは基本的には知らない道を駆け回るわけなので特に目印とかもなく此処まで行ったら引き返そうとかいう検討とかもなく道っていっても常に真っ直ぐではないので大抵の場合道に迷うんだけれど何しろ気温は氷点下近くて走ることによる熱で以て身体を保たせているわけだから帰り着くまでに疲れて走るの止めたりしたなら凍えて倒れるのかなとか、そういう思考が頭の片隅にぼんやり存在していたけど、死にたい死にたい死にたいと思っていた人間だったのにそういう時に感じる生きている感じはすごく好きだったしなんだか楽しかった。ああアレは楽しい迷子だった。
一生の中で大切なものは結果だろうかそれとも過程だろうか。そういう議論をきっと誰もがいちどは目にしている。
過程の方が大切なんていうのは綺麗ごとでしかなく何故なら過程は結果のために存在しているのだから結果に繋がらない過程にはやっぱり意味がなく、過程の方が大切なんていう意見はのところ結果が出ない人間が自分をなぐさめるために言っているだけだろうという声だって聞こえる。実際自分もそういうふうに思った時期はあった。だけれど今の自分ははっきりと大切なのは過程の方だと言う。
結果が大事だと口にするひとたちがいう結果っていうのは一体何だろうということを考えるとそれは例えば稼いだお金とかテストの点数とか誰と付き合い誰に勝ったかとか何の賞を取ったとか主にそういうものだ。でも厳密にはそれだって過程にすぎない。明日も自分が生きる限りは今日起こる全ての出来事はひとつ残らず過程で、ただひとつだけ結果と呼べるものは死ぬことだけだと思う。生まれた結果の死。これだけがこの世界でありとあらゆる生き物が持っているたったひとつの結果で、だから結果は実はすべてのものに極めて平等で少しも差異がない。それを踏まえて結果が過程を凌駕するというなら本を読む時最初のページと最後のページの2ページだけを呼んでいればいいしジェットコースターに乗ったら安全レバーを一旦下げてまた上げるとこだけ体験して満足した気になってみればいい。
此処でも何度か書いているけど自殺未遂をしたことが過去に一度ある。一回やって結構ギリギリのところまでいき退院した後はもう二度とやらないと思ったのである意味自殺未遂としては完璧な未遂だったんだけれども、結果がすべてというのであれば生き物にとって普遍的に結果といえるものはただただ生まれて死ぬだけなので、あの時死のうが今後死のうが死ぬという結果には少しも変わりがなく生き延びたことに意味はないということになってしまうわけだ。
ところがあの自殺未遂をしてから今までの数年間の人生は同棲やら結婚やらその他諸々の出会いがあり、鬱病も多分治ったし眠れるようになったしこれまでの人生の中では恐らくいちばん満たされてきたので、この時間には確かに意味がある。自分が意味を見出してるから自分にとっての強い意味がある。
しょせん生き物の一生なんていうのは生まれてから死ぬまでの迷子だ。
そして迷子を楽しめる人生は幸せだということを自分は知っている。