今日のわたしの死

 学習塾を出ると濡れたアスファルトの匂いがした。暖かい霧雨が音も立てずに降り続いており等間隔に並ぶ街灯や行き交う車のヘッドライトや点滅する信号機やコンビニから漏れる青い光などが夜に滲んでいた。傘をささずに歩くわたしは普段利用するバス停を素通りするとスマートフォンを取り出し母に宛てて「お世話になった先生に挨拶をしてから帰るので少し遅くなる」と嘘のメッセージを送った。バスに乗れば十分ほどの家路を髪の毛や洋服や背負ったリュックを湿らせながら歩く。気づけば目には涙が溜まり見える景色がいっそうぼやけていた。
 
 小さな頃に大好きだった玩具がある。水族館で買い与えられたイルカのぬいぐるみ。どこに行くにも肌身離さず持ち歩いていたのでしょっちゅう汚したが洗濯のため母に預けることさえ嫌で仕方がなかった。当時の母はそんなわたしに手を焼いたのだという。だけどあるときわたしはイルカを失くした。ほかの何よりも大切にしていたのにそれでも失くしてしまった。おもちゃ箱の底や寝室の枕元や車の後部座席や近所の公園のベンチの下も確かめたが見つかることはなかった。それからしばらくは暇さえあればイルカを探し回り見つからなくて泣いた。
 
 中学校入学時から三年間通った学習塾で世界史を担当していた遠川先生はわたしにとって初恋の相手だった。先生の授業には「進みが遅い」と不満の声を上げる生徒も少なくなかったがひとつひとつの事柄について紙芝居を読むようにユーモラスに語ってくれるのでわたしは気に入っていた。二年生時の春に最初の会話をした。授業の内容で質問したいことがあり授業後に講師室を訪ねたのだ。先生はわたしの問いかけに対しやはり丁寧に答えてくれたのだがそのときミントのような涼しい香りがした。授業の際は気づかなかったその香りについてもわたしが尋ねると先生はばつが悪そうに微笑み、好んで吸っている海外製の煙草の匂いなのだと小声で教えてくれた。

 以降わたしは遠川先生とたびたび話をした。先生と生徒は学習塾の外で会ってはいけない決まりなのだけれど授業後に出入り口で待ち伏せしていればバス停まで歩くあいだだけ話を聞いてもらえた。講師室にも世界史の授業があるたびに通った。話す内容は授業と関係のあることもあればないこともあった。学校での人間関係や親との関わり方について聞いてもらうこともあった。父親のいないわたしにとってあんなに近い距離で話を聞いてくれる大人の男性に出会うのはこれが初めてだった。高校受験を済ませたら告白しようと決めたのは三年生になったばかりの頃。そして先日第一志望合格の報告と併せてついに思いを伝えた。もちろんあっけなく振られた。

 中学時代は残り半月ほど。来月からは全寮制の高校で新しい生活が始まる。その進路を志望した理由は幾つかあるのだが最も大きいのは母から離れて寮生活を送りたかったからだ。引っ越しもするので一週間ほど前から少しずつ引っ越しの荷造りを進めている。寮に持っていくものと家に残すものと捨ててしまうものとをそれぞれ仕分けしながら部屋を片付けているとクローゼットの奥にぼろぼろになったイルカのぬいぐるみを見つけた。あのイルカだ。幼い頃のわたしにとって世界でいちばん愛おしかったイルカだ。だけれどわたしは捨ててしまうものの袋の中にそのイルカを放った。当時はあんなに一生懸命探したのにいま見つけても少しも嬉しくなかった。

「いまのあなたには僕への恋心がとても重要なものに見えているかもしれません」と、あの日わたしに告白された遠川先生は普段どおりの丁寧な語り口で言った。「だけどあなたはこれからの人生でたくさんのひとと出会います。おそらく恋も幾つかするでしょう。その中にはあなたのゆくすえを大きく変えるような恋もきっとあるはずです」聞いているあいだわたしは目を背けたかった。まばたきもせず最後まで聞いたのは振られている最中であってもそれが先生の言葉だったからだ。「そんな素晴らしい恋を経験したあとで振り返れば、いまあなたが抱いている恋心も小さな思い出のひとつになっているはずです。素敵な高校生活を送れるよう応援しています」

 雨に濡れながら夜の家路を歩く。後ろから来たバスの灯りは濡れたアスファルトの上で乱反射しながらわたしを追い抜いていく。遠川先生にかけられた言葉を思い出すたびに捨ててしまったイルカの姿が脳裏に現れる。先生の言葉はたぶん正しいのだろう。あんなに大切に思っていたイルカでさえ年月を経て見つけてみれば捨ててしまうことに何の躊躇もなかった。だから先生への恋心も何年か経てば同じようになる。たとえば十年後のわたしは先生のことを思い出したり実際に再会したりしてもクローゼットの奥に転がっていたイルカをみつけたときのようにきっと何とも感じないのだろう。だが先生への恋心が要らなくなってしまったわたしはいまのわたしと本当に同じわたしなのだろうか。いまのわたしが大切にしているものを大切に出来ないならわたしは未来のわたしのことをすこし憎いと思う。

 交差点の青信号がちかちかと点滅する。急いで歩けば横断歩道を渡りきれるがわたしは立ち止まった。学習塾を後にしてから四十分ほど歩き続けているがまもなく家にたどり着くだろう。今日のわたしはそろそろ終りを迎える。わずかに違う明日のわたしが背後に迫っている。信号が青に変わる。わたしはゆっくり横断歩道を渡る。

あとがき

「いまのわたしは幸せだけど、あの日の自分がいまの自分をみたら、きっと好きにはなれないだろうと思う」そんな言葉からできたお話です。

2020/5/18/辺川銀

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