冬のよく晴れた朝にベーコンと目玉焼きを載せたトーストを食べながらエヌエイチケーの天気予報を眺めていたらニャアニャアと鳴き声が聞こえたのでベランダに目をやると小さな仔猫が窓ガラス越しにこちらを見つめてた。この部屋は集合住宅の一階部分なのでこうして野良猫がやってくることは時々あるんだけど仔猫を見たのはこれがはじめてだった。目元にハート型の特徴的な斑があるその仔猫は繋がる痩せておりお腹を空かせた様子だったのだがこの集合住宅ではペットの飼育が禁止されてるから餌をやったり部屋に上げたりすることはできない。テレビに映る気象予報士は淡々とした口調で以て今日も一日冷たい風が吹きすさぶ見込みなのだと語った。
あのひとに出会ったのも冬の寒い日だった。十代だった当時のわたしは生まれ育った土地から逃げてきたばかりでお金も仕事も住所も持たず何の価値もない小娘でしかなかった。だがあのひとはそんなわたしをびっくりするほど高い価格で買った。それも一度や二度ではない。もしもあのひとに買われなかったらわたしは一体どうなっていただろうか。飢えや寒さに耐えられず倒れていたかもしれない。あるいは警察に保護されて親元に送り返されていたかもしれない。そうならなかったのはあのひとのおかげだ。あのひとに買われたからわたしは屋根のある場所で毎晩眠れたし食べるものや着るものに困らない暮らしを手にすることができた。だからわたしは買われるたびにあのひとのことを好きになっていった。
あのひとには奥さんと娘がいた。あのひとは家族のことをとても愛しており「きのう娘が似顔絵を描いてくれたんだ」とか「あしたは奥さんとの結婚記念日なんだ」などといったことを楽しげに話していた。そんなに大事な家族がいるのにどうしてわたしを買ってくれるんですかとベッドの上で訊ねたことがある。するとあのひとは最初にわたしを買った夜を振り返り「君が今にも倒れそうなほど弱って見えたせいだよ」と微笑みながら答えた。「家族に隠し事をするのは確かに心苦しい。だけどあのまま君を放って帰れば後味の悪さが残ると思ったんだ」その話を聞いたわたし落ち込んだ。自分なんかのせいであのひとに不貞を働かせてしまったのだと理解したからだ。以降わたしは買われるたびに自分のことを嫌いになっていった。
目元にハート柄の斑があるその仔猫は最初に姿を見せてから四日間続けてわたしの家のベランダに出現した。現れるのは決まって朝だった。仔猫がどんなに切なげな鳴き声をあげてもわたしは頑なに何も与えなかった。仔猫の身体は日を追うごとに目に見えて痩せていき他所で何かを食べているふうでもなかった。場所を移して助けを呼んだら手を差し伸べる愚かな人間だっているかもしれないのに何故よりによってわたしのもとにやって来るのだろうと酷くやきもきした。四日目の夜などは翌朝ベランダであの仔猫が冷たくなっていたらどうしようなどと考えてしまいあまり眠れなかった。そして五日目の朝にベランダを見ると仔猫の姿はなく離れた場所から妙に多くのカラスの鳴く声が聞こえた。六日目にも七日目にも仔猫は来なかった。
わたしを買って抱く時のあのひとは虎のようだった。あのひとはわたしが着ている服を引きちぎるように脱がし痣が残るほど強いちからで身体を組み敷いた。意識が遠のくまで首を絞め続けた。血が滲むまで喉に噛みついた。その行為は愛撫というよりも捕食と呼ぶほうがよほど相応しかった。そんなふうに貪られているときわたしは決まってあのひとの奥さんについて思いを巡らせた。あのひとの奥さんがこんなにも乱暴に抱かれることはきっとないのだろう。あのひとの奥さんは髪の毛の先から足の爪の先まで宝物みたいに大事にされており丁寧に丁寧に抱かれているはずだ。そんな様子を想像するとわたしはこの場で喉を食いちぎられたって構わないと思った。
あるときあのひとは娘を連れてわたしに会いにきた。あのひとはまだ自身の腰ほどの背丈しかない我が子に対しわたしのことを「大切な友人のひとり」だと紹介した。その日わたしたちはわたしの部屋で二時間ほどテレビゲームを遊んでから近所の公園を駆け回り日が暮れる頃になるとファミリーレストランで夕食を済ませた。帰り際になるとあのひとはすやすや眠る娘を背負いながら普段よりもいっそう多くの金額をわたしに手渡した。その日を最後にあのひとはわたしを買わなくなり連絡も途絶えた。そんなふうにされてもわたしはあのひとのことを嫌いになることができなかった。嫌いになることができなかったのであのひとがどんなに酷い人間だったのかを思い知ることができた。
目元にハート柄の斑がある仔猫の一件から半年ほどが経った。冬が終わり春も通り過ぎ夏がやって来ていた。その朝もわたしはベーコンと目玉焼きを載せたトーストを食べながらエヌエイチケーの天気予報を眺めた。朝食を食べ終えると顔を洗い髪を整え化粧を施してからスーツに着替えて自宅を後にした。駅に向かう途中でふと視線を感じたので足を止めてみると塀の上からわたしを見おろす猫の姿を見かけた。その目元には特徴的なハート柄の斑があった。身体はずいぶん大きくなっていたが一目であの日の仔猫だと分かった。わたしが一歩距離を詰めようとすると猫はひらりと身体を翻して塀の向こうへ消えた。その動作からは人間に対する少なくない警戒心を読み取ることができた。良かった、とわたしは思わず呟く。駅へと続く道をふたたび歩き始める。
あとがき
好きになるほど自分のこともいっそう好きになれる、そんな相手がいます。好きになるほど自分のことを嫌いになってしまう、そんな相手もいます。恋は落ちるものですから、どんな相手を好きになるかは自分で選びにくいし、どちらのタイプを好きになることもあると思います。でも難しいなりにも、時には痛い思いをしながらでも、ちょっとずつ意思的に選べるようになったら、心安らかな恋に近づけるんじゃないかな、という気がしています。
2020/12/19/辺川銀