わたしの家のわたしの部屋のわたしの机の上には、サッカーボールぐらいの大きさした丸い金魚鉢がぽつんて置かれていて、その中にはまるで生まれる前の赤ん坊みたいな形した生き物が背中を丸めた姿勢で目を閉じ眠っていて、時折ぷかぷかあぶくを吐いたりするのだけれど、こいつは天使の子どもだ。部屋隅に設置された大きめのスピーカーからはモーツアルト全集がいつも流れている。わたしはカッターナイフを使って金魚鉢の上で自分の手首の皮膚に薄く切れ目を入れそこから溢れる数滴の血液を金魚鉢の中に垂らした。すると天使の子どもは眠ったままでだけど身体を微かにゆらゆら揺するからたぶん喜んでるんだろうなとわたしは想像する。わたしはそんな天使の子どもを見つめる。天使の子どもはいつか目を覚まして、そしてその時には、わたしの願い事をたったひとつだけだけど何でも叶えてくれる。
夕飯時んなるとわたしはお母さんとお母さんの旦那との三人で四角い食卓を囲んだ。この家ではご飯を食べる時かならずかならずテレビが点いてるんだけど何故かというとそうでもしないわたしたちはとても間をもたせられないと三人ともそれぞれ分かっているからだった。学校はどう?ってお母さんはわたしに訊いて来るけどわたしは答えずもそもそご飯を食べる。わたしがお母さんに返事を返さないからお母さんの旦那は気まずそうに眉をしかめてわたしとお母さんの顔色を交互にきょろきょろ見回すんだけれど、わたしそれもすごい厭だと感じる。返事ぐらいしなさいよっ!とお母さんは苛立った声色でテーブルを叩いてがガチャンて大きな音を立てたけれどやっぱりわたしは黙ったままもそもそと箸を動かす。それを見たお母さんの旦那が、まぁ多感な時期だからさとか上ずった調子で言いお母さんの肩にポンと手を置いてなだめる。その様子を見てわたしは、死んでしまえ、と心の中だけで呟く。
自分の部屋の机の上に置いたサッカーボールぐらいの金魚鉢の中に天使の子どもをわたしは飼育している。手首を切り水面に赤い血液を垂らしてまだ眠っている天使の子どもが目覚める時を今か今かと待ってる。わたしの部屋には常にモーツァルト全集のCDが流れているのだけれどわたしは別にモーツアルトもクラシック音楽もそんなに好きではなくわりとどうでもいい。わたしがいちばん恐れているのは、曲と曲の間にそれぞれ入る数秒間のまったく無音の時間だ。そのほんのわずかな時間だけでも音が途切れてしまうと、わたしの耳には壁を隔てた向こう側から漏れ出してくる獣みたいなお母さんの喘ぎ声が入って聞こえてしまい身の毛がゾゾっとよだった。赤ん坊のような姿をした天使の子どもがゆらゆらと微かに身体を動かし金魚鉢の硝子をこつんこつんと蹴った。この子いつか目を覚まして、そしてその時には、わたしの願い事をたったひとつだけだけど何でも叶えてくれる。曲の切れ目切れ目にお母さんの喘ぐ声が聞こえる。むかついて、今に見てろと思って思った。天使にお願いしたらば、わたしはあんたたちをこの世界から消してしまうことさえも可能だ。
お母さんの喘ぎ声が聞こえ始めてしまうとモーツァルト全集を流していても家に居るのがいたたまれなくなったからわたしはベランダから屋根を伝って家の外へと出た。ふらふらと歩いて身体に悪そうな色の光が瞬く駅の傍までくると何人かの男のひとがわたしに声を掛けた。やつらはみんなだいたいお母さんやお母さんの旦那と同じぐらいの年代の男でわたしの身体をお金で買おうとしてきた。断ってもじっとりと粘着質に群がって纏わりついてくるのを気持ち悪いなと感じた。別の場所を見ると女と男がふたりで腕を組んで並んでラブホテルに入ってったから大人っていうのは嫌な生き物だなってわたしはそう思った。大人なんて、そんな、子どもの前にでは偉そうなこと言うくせに何も正しくないからわたしの大事な天使の子どもが目を覚ました時にみんなまとめて死んでしまったら良いや。
自分の部屋の机の上に置いたサッカーボールぐらいの大きさした丸い金魚鉢の中に天使の子どもをわたしは飼育している。スピーカーからモーツァルト全集を流し手首をカッターナイフですぅっと切るとそこから溢れる赤い血液を毎日少しづつ垂らして与えている。そうすると天使の子どもはゆらゆらと微かに身体を揺らしたり金魚鉢の硝子をこつんこつんと蹴ったりしているからたぶん喜んでる。壁の向こう側から喘ぎ声が聞こえてくるとわたしはモーツァルトの音量を上げなければいけなくなる。天使の子どもはいつしか目をさまし私の願いをひとつだけ叶えてくれることになってる。時たまあぶくを吐きながら揺蕩っているその姿をずっと眺めてると、ほんの一瞬うっすら目を開いて、それからまた、すぐに瞑って眠った。この子はもうじき目覚めてくれるはずだ。
夕飯時んなるとわたしはお母さんとお母さんの旦那との三人で四角い食卓を囲んだ。いつもと違ってテレビのスイッチが付いていなかったからどうしたんだろうとわたしは不思議に思った。お母さんとお母さんの旦那はどこか様子がそわそわしていたからそれもわたしは酷く気に入らなかった。わたしは別に気にしない振りを装いもそもそと箸を動かしてご飯を口に運んだ。お母さんもお母さんの旦那も何もしゃべらなかった。間が持たなくなってテレビのリモコンにわたし手を伸ばすと、あのね、と不意にお母さんが口を開いて言った。あなたに妹ができるよ。と、お母さんは少し俯きお腹を軽く掌で触りながら続けた。わたしはもそもそご飯を食べ続けた。
食事を終えて自分の部屋に戻ると机の上に置いたサッカーボールぐらいの大きさした丸い金魚鉢の中で飼っていたはずの天使はどこにもいなくなってて、赤い血液が混じり汚くよごれた水だけがぷかぷか揺らいでいた。わたしはもうモーツァルト全集のCDを部屋に流さなかったが、いつものようにカッターナイフで手首を切って血を流すと静かで冷たい金魚鉢の中に垂らした。