ウィスキーの色をした砂漠へ

「わたしねーえ、戦争をしてる国に行こうと思うよう」
 風呂上りで濡れた小麦色の髪の毛先を触りながらぐりこは八重歯を見せて笑った。ぐりこの部屋の壁には二十三個もの時計が掛けられているけどどれも動いていなくて、そのそれぞれがばらばらの時間を指し示して止まっている。ぐりこというのはもちろん本名じゃなくって今からもう十何年も前、まだ幼稚園に通っていた頃おれがつけたあだ名だ。ぐりこは床に直接座ってウィスキーを喉を鳴らして飲む。おれはその様子をぐりこのベッドの上から、膝を抱えて眺める。どこかで遠くで犬がオォンと吠える。

 小さな頃からぐりこはとてもよく笑う女の子だった。
 笑う時にはにぃっと、八重歯を見せて笑った。
 お気に入りの玩具を壊してしまったときもぐりこは笑顔だったし、飼ってた犬が死んでしまった時にもやっぱり笑っていた。
 高校生のときにはじめて出来た彼氏と別れた時なんて半べそかきながらアハハと笑っていた。
 つらい時ほどぐりこは、よく笑う女の子だった。
 だからおれはぐりこのあらゆる表情の中で笑っているときの顔がいちばん寂しそうだというふうにずっと思っている。
 いちばん寂しそうで、いちばん綺麗だって。そういうふうにずっと思っている。

 ベッドから立ち上がってぐりこの肩に触った。おれがぐりこの身体に直接触れたのは小学校のフォークダンス以来だった。大人になったぐりこの感触はおれが何年ものあいだ悶々と思い描いていたそれよりもずっと柔らかくそして弱々しかった。その身体を、ガタンと音を立てながら床に押し倒して両の手首を掴んだ。ぐりこはほんの少しだけ抵抗したが手首を掴まれるとそれきりおとなしくなり叫んだりすることもなかった。シャンプーなのかボディソープなのかぐりこ自身の香りなのか分からないけど甘い匂いがした。小麦色の髪の毛はまだ乾いていなくてそれだけひやりと冷たい。仰向けになったぐりこはおれを見上げている。ぐりこの手首を捕まえているおれの左右の手は、汗が滲んでじとっり湿っている。

 どんなに悲しくても、つらい時ほどぐりこは、よく笑う女の子だった。
 だからこの前、タクシーに乗って病院から帰ってきたときにも、にぃっと八重歯を見せてやっぱり笑っていた。
「彼ねえ、やっぱし、来てくんなかったよう」
 ぐりこはタクシーから出て財布の中から運転手に料金を払っていた。
 おれはその薬指から指輪がなくなっていることに気付いた。
「手術した実感とかまったくないけど。こんでホントにひとりぼっちだよお」
 お腹をさすりながら、ぐりこは寂しそうに笑った。
 おれはぐりこが、ひとりぼっち、なんていうのが悲しく、
 それからそんな時に、そう思う自分が、嫌だった。

「あんさ」
 ぐりこの部屋の壁には二十三個もの動いていない時計が掛けられていてすべてがおれを見ている。押し倒して両の手首を捕まえたけど目が合ってしまうとやっぱり何もできずおれは硬直していた。触れている部分は温かくて壊れやすく壊してはいけないものだと感じた。しばらくそうしているとぐりこは口を開き、そしてにぃっと笑った。
「もしかしてわたし今あんたに襲われてる?」
 疑問形で訊かれた。おれは返事を返せず代わりに触れていた身体から離れベッドの上へと戻った。ぐりこは手をついて身体を起こすと何事もなかったかのように再び、グラスにウィスキーをなみなみ注ぎ始める。
「わたしねーえ、戦争をしてる国に行こうと思うよう」
 風呂上りで濡れた小麦色の髪の毛先を触りながらぐりこは八重歯を見せて笑った。

                     

 

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