タマゴとハンバーグ。それからレモンのお酒

Illustration by Igarashi Arisa

 空には雲がひとつもなくて風も気持ちがいい。家のベランダで洗濯物を干していると夫のズボンのポケットから去年の彼の誕生日に私が贈った濃紺色のハンカチが出てきた。脱いだズボンを洗濯機に放り込む時にポケットの中身を確認するという習慣が夫にはないのでこういうことはわりとよく起こる。一緒に暮らしたばかりの頃は私がそれを何度か注意したのだけど、最近ではもう、私の方でそういうものだと思うようになったのでほとんど気にならない。洗濯を終わらせた私はフローリングと絨毯に一通り掃除機を掛けてからテレビのスイッチを入れ、五年前に街の中心に突然現れた巨大なタマゴの様子を中継するワイドショーを眺めながら、昨日の夜に作ったカレーライスを食べて昼食を済ませた。一晩寝かしたカレーというのは美味しい。
 
 それから私は電動自転車に跨って夕飯の買い物に出かけた。街の中心にはさっき見たワイドショーでも中継されていた巨大なタマゴがあり私はその場所を大きく迂回してスーパーを目指した。タマゴはこの街のどのビルよりも大きく、その表面には小さなヒビがいくつも入っている。このタマゴがこの場所に現れてからというものワイドショーやニュース番組で頻繁に見かけるようになった専門家の話によるとこのタマゴ中にはとても凶暴な何かが眠っており孵化した時には街全体の半分から三分のニぐらいが消えてなくなるらしい。そのうえ現在の人類にはこのタマゴを壊したりどこかに運んだり無害化する手段は一切ないそうだが、孵化の時期については十年後かもしれないし今日かもしれないし或いは百年とか二百年も先かもしれないのだという。今日の夕飯はチキンソテーにするつもりだったのだがスーパーに辿り着いて肉売り場を覗くと牛挽肉が普段より三割も安く売られていたから予定を変更してハンバーグを作ることに決めた。

 買い物から戻るとキッチンにあるラジオの電源を入れてから夕飯の支度に取り掛かった。今日のポイントはハンバーグのつなぎに食パンを細かく千切ったものを使うというところだ。そうすることでふんわりとしたハンバーグが出来ると小さい頃に母から教わった。ラジオのスピーカーからは私たちがまだ学生だった頃に少しだけ世の中の注目を集めた女性シンガーの歌うバラードが流れている。そういえば夫は当時その女性シンガーのことを随分気に入っており私は一度だけその髪型を真似したことがあった。曲が一度目のサビに差し掛かると同時に、そういえばハンバーグに掛けるためのケチャップが切れているなということを思い出したので私は一旦調理を中断して携帯電話を手に取り、帰りに何処かでケチャップを買ってきて欲しいと夫にメッセージを送った。了解。と、短い返信が三十秒後にあった。

 今朝。夫が会社に向かうために家を出ようとした時。いってらっしゃいのキスをする数秒前。冷蔵庫の中にあるレモンのお酒を今夜一緒に飲もうと私は提案しそれに対して夫は頷いた。私たちは決まって毎朝出かける前にその日の夜にすることをひとつ約束する。そのほとんどは小さな約束だ。けれど約束があることによって今日も彼は家に帰ってきてくれると私は信頼し安心することが出来る。おまけに今日はケチャップを買ってきてくれるという約束まであるから、たとえどういうことが起きようと夫は必ずいつものように帰って来るだろう。
 
 夕飯の支度を終わらせた私は片付いた部屋の中でテレビを眺めながら夫の帰りを待った。四十インチの液晶画面にはすっかり見慣れた巨大なタマゴが映っているがその表面にはこれまでなかった大きなヒビがひとつ増えていた。額に汗を光らせた専門家は最悪の場合だと今から十分以内にいよいよタマゴが孵化する可能性があり孵化しない可能性もあると緊迫した様子で語っておりその横に座る女性キャスターは青ざめた顔をしていた。私はあくびをした。タマゴが孵るか孵らないかは分からないが私の夫もあと十分ほどで帰宅するはずでそれは間違いがない。何故なら部屋は綺麗に片付いているし夕飯だってばっちり美味しく出来た。テレビのスピーカーからは女性キャスターの甲高い叫び声が聞こえたがこの家の冷蔵庫にはレモンのお酒もある。十分以内にこの家のドアノブは音を鳴らすだろう。私はその時いつものように玄関先で彼にキスするはずだ。そうなることを今日も私は疑っていないし昨日もそうだった。明日もきっと信じているだろう。



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