ずっと眠っていたかった

 
 私の彼は長い眠りについた。
 死んだわけではない。身体は温かいし規則正しい寝息を立てている。顔色だって良い。だけど目覚めないのだ。
 どうしてだろう。彼の目元にある小さなほくろを指で撫でながら私は考えたがそれといった原因は思い当たらなかった。
 昨日の夜だっていつも通りだった。私が大切にしていたグラスを彼が割ってしまったことが原因で些細な喧嘩をしたけどすぐに和解した。観光ガイドを眺めながら週末に行く予定の温泉旅行について笑顔で会話をした。それからいちどセックスをした後、抱き合ったまま眠りについたのだ。おかしなことなどひとつもなかったはずだ。
 
 夜になっても彼は目覚めなかった。三日が過ぎても起きることはなかった。週末になっても眠りっぱなしだったから私たちは結局、約束していた温泉旅行に行くことが出来なかった。さらに一ヶ月が過ぎてもやっぱり目覚めなかった。
 私はベッドの端に腰掛け、穏やかに眠る彼の長い前髪をそっと掻き上げた。彼の寝顔は可愛いなと、彼の目元のほくろにキスしながら私は考える。肌が白くてまつげが長いから眠っていると女の子みたいだ。けれどいい加減起きてくれなくては、一緒に出かけることはもちろん、最近読んだ小説を交換しあうこととか、抱きあうことも出来ない。それはさすがに寂しい。途方もなく寂しい。

 一度、彼を医者に見せた。彼が目を覚まさなくなってからちょうど二ヶ月経った頃だった。彼を病院まで背負っていくことは出来なかったので医者に来てもらった。だけど結果は期待はずれだった。化粧の厚いその女医は、こともあろうに私に対して、彼との恋人関係を解消するよう求めたのだ。おそらく私が困っているところにつけこんで彼のことを寝取ろうと考えたのだろう。私はすぐにその医者を追い返した。そしてもう医者になんか二度と頼らないぞと決めた。
 それからしばらくは大学の講義もアルバイトもさぼった。図書館の書物やインターネットのサイトを読みあさって彼を目覚めさせる方法を探した。幾つかのやり方を試みたが、それでも彼が目を覚ますことはなかった。

 私の彼は長い眠りについた。あれからずいぶん時間が過ぎてしまった。私は何度かの留年を繰り返した末に大学を卒業して会社に勤め始めた。年の近い友人たちのうち何人かは結婚していたり子どもが居たりする。一昨日の朝もポストに結婚式の招待状が一通届いていた。
 家のベッドでは今も変わらず彼が眠っている。彼の容姿は当時と比べて少しも変わらない。肌は相変わらず透けるように白くて少しの傷もない。髪の毛や髭が伸びることさえない。
 一方の私は実年齢より若く見られるものの、首筋や手の甲に年齢が出てるなと感じることが最近増えてきた。人間というのは起きている間に歳を取るのだなと、彼を見ていて思った。
 今夜も彼は規則正しい寝息を立ててすやすや眠っている。私は彼の目元にある小さなほくろを毎晩撫でている。明日の朝には彼が目覚めるようにと願いを込めて軽く軽く撫でる。
 私は彼が目覚める時を静かに待っている。
 ずっと待っている。
 
 ある日の夕方だった。空は綺麗に晴れていたのに小雨が降っていた。真っ赤な夕陽が街の景色に深い陰影を刻んでいた。駅の改札を出て家へと向かいながら、なんとなく今日のことは、何年経っても覚えているのだろうなとぼんやり考えた。そんな天気だった。大きなからすが頭上を通過した。
 線路を跨ぐ陸橋を渡る途中、向かい側からこちらに歩いてくる父娘の姿を見掛けた。興奮気味に喋っている娘の年齢はたぶん四歳か五歳ぐらいだろう。その手を引いて歩く父親は、口元に深い皺を刻み、穏やかに笑っていた
 すれ違う瞬間。父親の方と、一瞬、目があった。その目元には見覚えのある小さなほくろがあった。
 私は立ち止まって後ろを振り返った。追いかけようかと考えたけれど足が動かなかった。父娘は一緒に陸橋を渡り切って、次の角で曲がった。
 家に帰り着くと、もうベッドの上に彼の姿はなかった。私はそのことについてあまり驚かなかった。彼はもうとっくの昔にここには居なかったのかもしれないとさえ思うことが出来た。
 明日旅行に行こう。そんな考えがふっと頭を過った。温泉旅行に行こう。
 本棚の端っこに置かれている観光ガイドを手に取り、ページをぱらぱら捲った。この観光ガイドは、彼が眠り始めた日から今日まで、放置されていたので、埃で汚れており、ずいぶん傷んでいた。



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