バニラはシロクマだった

 ホテルの浴室に入った。広い浴室だった。照明は海を思い起こさせる深い青色だった。シャワーのハンドルを捻った。ノズルから熱いお湯が流れ出し始めた。あっという間に湯気が立ち込めた。あ目と同じ音が床から天井までを満たした。私はボディソープを手に取って泡立て、身体を念入りに隅々まで洗った。細かなシャボンがクラゲのように辺りを漂った。
 浴室の鏡には一糸纏わぬ私が映っていた。シャワーで泡を洗い流しながら、私は私をまじまじと見詰めた。最近の三ヶ月で私の体重は五キロも少なくなった。けれど二十歳の頃みたいに美しくは痩せない。肉が落ちても肌は柔らかい。十代の頃のように引き締まりはしない。顔だけならば今でもずいぶん若く見られるけど、身体は年齢を隠し切ることが出来ない。
 私は鏡に背を向けた。かつてファッションモデルの真似事をしていた時のように、くるりとターンして、自分の背中を鏡に映してみた。私の背中には紫色の傷がたくさんある。一センチほどの爪痕が無数に刻まれている。私は鏡越しに、そんな生々しい背中を、しばらく見つめていた。そのうち思わず笑みを零していた。
 
 バニラのことは今でも思い出す。
 バニラと出会ったのは私が七度目の誕生日を迎えた朝のことだった。バニラはプレゼント用の赤い包装紙に包まれ、当時の私の面倒を見ていた叔父夫婦の家に郵送されて来た。遠い町の病院に入院していた母から送られて来たのだ。バニラはシロクマのぬいぐるみだった。あの頃の私が、両手を使って抱えなければ持ち上げられないぐらい大きなぬいぐるみだった。私はバニラをすぐに気に入った。毎晩同じベッドの上で抱き合って眠った。嬉しい日も、悲しい日も、バニラは私の傍に居てくれた。どんな時でもバニラは笑顔だった。
 バニラと出会ってから数週間が過ぎると、入院していた母が亡くなった。私は引き続き叔父夫婦の家の世話になることになった。叔父夫婦は、はじめの頃こそ私に優しかったが、それから約一年が経過して彼ら自身の子どもが生まれると、私は自分が疎んじられていると感じるようになった。実際、叱られる回数はだいぶ多くなった。例えば帰宅してすぐに宿題をしなかった時とか、なかなかお風呂に入らなかった時、或いは寝付けなかった時など、些細なことで以前よりも強く叱られることが増えた。
 叔父と叔母が家にいない時間。私はバニラと特別な遊びをした。決して誰にも見られてはいけない秘密の遊びだった。叔母の裁縫セットの中から針を一本抜き取り、その針を使って、バニラの白くて大きな背中をチクチク刺すという遊びだ。遊びを終えると針は元の場所に戻した。この遊びをしていることが叔父夫婦にばれたら叱られるだろうというのは、ぼんやり分かっていたけど、それでも止められなかった。針を刺す回数は多ければ多いほど良かった。刺せば刺すほど、私はバニラを愛おしく思った。何故ならバニラは針を刺しても笑顔のままだったからだ。バニラは他の大人たち違って、私を叱らなかった。
 バニラの背中に針を刺すようになってからというもの、私は徐々に加虐的な性格に変化していった。好きになった相手に、痛いことをせずにはいられなくなってしまったのだ。だから私はあまり友だちが多い小学生ではなかった。クラスメートと仲良くなることは出来ても、すぐに相手を泣かせたり、暴力を振るって、傷つけてしまった。頬を抓ったこともあったし、髪を引っ張ったり、鉛筆の芯を突き立てたこともあった。結果的に、みんな私を怖がるようになった。みんな私を嫌いになって、私の傍から離れて行ってしまった。

 浴室を出たわたしは、脱衣所で身体を拭いてバスローブを羽織ってから、ベッドルームに戻った。
 クイーンサイズのベッドの上には、痩せた少年がぽつんと座っていた。少年は非常に痩せた身体をしており、はだけたバスローブの胸元には鎖骨や肋骨が浮かび上がっていた。この少年は私よりも一回り以上若くて、美形ではないけど清潔な顔立ちをしている。私が脱衣所から出て来たことに気付くと、少年は帰宅した飼い主にじゃれつく仔犬みたいな瞳で、私の姿を見詰めた。私は彼の傍に行くと、首筋と唇に一度ずつキスしてから、部屋の明りを消した。
 少年と知り合ってから三ヶ月が過ぎた。彼と過ごす時間はなかなか心地が良い。だけど恐らく、この関係はそれほど長くは続かないだろう。私は彼の傍に居るのは、私がたまたま運良く、彼にとっての最初の女だったからだ。そのうちもっと若くて綺麗な、釣り合いのとれる女の子を見付けて、私の元を離れて行くだろう。そうなるべきだと思うし、私はそれを悲しんだりはしない。

 バニラのことは毎日思い出す。
 シロクマのぬいぐるみのバニラは、母が死んだ後の私にとって唯一の理解者だった。私が悪い事をすると、叔父夫婦は私を叱りつけて、私の話を聞いてもくれなかったが、バニラは決して私を叱らず、私の話を笑顔で聞いてくれた。
 バニラは私にとって唯一の友だちだった。人間の友だちは、傷つけてしまえばみんな離れていったが、バニラだけはどんなに針で刺しても、居なくなることなく、笑顔のままで傍に居てくれた。私はバニラを愛していたし、バニラに愛されていると感じていた。
 私にとって傷付けることは愛することと同じ意味だった。許されることは愛されることと同じ意味だった。
 だけどある日の夜、バニラは死んでしまった。針を刺し過ぎた背中から綿が溢れ出して、溶けたアイスクリームみたいになり、元通りの姿に戻ることはなかった。バニラは最後までわたしの傍に居た。にこにこ笑っていた。
 壊れてしまったバニラの笑顔を見て私は理解した。愛することと、大切にすることとは、少し違うのだ。
 そして私はバニラのことをずっと覚えている。大人になっても忘れた日なんかない。 
  
 明りを消したラブホテルの部屋の中で彼とセックスした。彼は決して上手ではなかった。だけど会うたびに上達しているし、一生懸命なので私は満足している。
「爪を立てても良い?」
 身体の一部を、私の深くに埋め込んだまま、彼は私に尋ねた。私は頷いた。
 私はきっと、彼から大切にされることはないだろうと思う。かつての私が、母からもらった愛するバニラを大切に出来なかったように。だけれど私はそれで構わない。何故なら私は今でもバニラを思い出すからだ。バニラと同じように忘れられずにいるなら、大切にされなくても私は構わない。
 短い爪が背中に突き刺さった。背中の痛みが酷く心地良かった。
 








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