雨が降っても花は笑わない


 九月の夜の冷たくない雨は微かな音さえ立てることない弱さで降り続いており、夏服姿のトーコと僕は車通りの少ない道を学校とは反対の方向へ傘をささずに並んで歩いて行く。トーコの濡れたワイシャツからは下着の紐や白桃色の肌がうっすらと透けており僕は鉛を飲み込んだような鈍い重さを喉の奥に感じ、ぼんやり灯った街灯の明かりの中をふらふらと踊りながら通り過ぎていく細かな雨粒たちは、粉々に砕かれた硝子の破片のようでもあり光に集る羽虫の群れにも似ているような気がした。横断歩道の前で僕らは立ち止まると歩行者用の信号が赤から青に切り替わるのを待った。僕とトーコは恋人同士なのだが、大型のトラックがアスファルトで舗装された地面を細かく揺らし水しぶきを跳ね上げながら目の前を通り過ぎていくと、僕は彼女に別れたいと伝えた。

 十五歳の僕にとってトーコは初めての恋人だった。教室での彼女は口数が多い方ではなくあまり目立たなかった。特に親しい同性の友だちが居る様子はないし男子からの好意を集めやすいタイプというわけでもなかった。不細工でも美人でもないのできっと卒業してから五年も経つ頃にはクラスメートのほとんどが彼女の顔や名前を思い出せないだろう。けれど彼女の顔にはいつも静かな微笑みが浮かんでいて、僕はそれに惹かれた。路肩で慎ましく小さな花を咲かせる植物のようだと思ったし、仔犬みたいに何にでも吠え立てる同世代の他の女の子たちとは違う魅力を感じた。僕は日に日に彼女に惹かれていき、そして二ヶ月前、夏休みに入る少し前に告白して恋人同士になった。
 
 交際を始めてからもトーコは常に微笑みを湛えていた。初めてのデートで屋台のたい焼きを買い食いしたときも、ふたりでプールに出かける予定が雨で中止になったときも、駅で酔っ払っ居に売春を持ちかけられたときも、たまたま立ち寄ったペットショップのガラスケースの中で眠る成猫を眺めていたときも、ショッピングモールに服を買いに出かけたときも、彼女の微笑みや穏やかな物腰はいつでも同じだった。喧嘩や言い争いをしたことなんか一回だってなかったし泣いた顔や怒った顔を見せたこともなかった。 

 ショッピングモールに服を買いに行った日の昼食はフードコートで食べた。そのとき僕らは号泣している五歳か六歳ぐらいの男の子がを見かけた。男の子はどうやら欲しい玩具を買ってもらえず駄々をこねている様子で、最初のうちは声を張り上げるだけだったが、そのうち椅子や机を蹴飛ばし始めると、周囲の客の冷めた目線が彼に注がれた。うるさいな。僕は思わず口に出して呟いてしまい、それから少しの後味の悪さを感じた。何故なら傍に居た若い母親は、彼女自身が泣きそうな顔になりながらも息子を抱き上げたり頭を撫でたりして、なんとかなだめようと、一生懸命苦心していたからだ。けれど横に居たトーコは「そうだね。うるさいね」と先程の僕の呟きに相槌を打ち、「叩けば黙るのにね」と、いつもと同じ静かな笑顔で当たり前のように続けた。

 夏休みの終わりにトーコが一度だけ僕の家に来た。その日は両親が親戚の法事に出かけており次の日の夕方まで帰宅しないことがあらかじめ分かっていた。なので僕はあのとき初めてのセックスを彼女とするつもりだった。部屋はきちんと片付けておいたしコンドームだってちゃんと用意していた。彼女もそれを拒むことはなかった。けれどいざベッドの上で彼女の服を脱がせた時、僕は思わず小さな声を漏らした。彼女の華奢な背中には火傷の痕が幾つも幾つもあった。僕は煙草を吸ったことがない。だけれどそれが火の点いた煙草を押し当てたことによって出来た火傷であることは一目見て分かった。僕がそのまま唖然としていると「続きは?」と背中を向けたまま彼女は尋ねてきた。けれどその後はもう、彼女がどれだけ手を施しても僕のそれが勃つことはなかった。彼女は服を身に着けながら「びっくりさせちゃったね。ごめんなさい」「ごめんなさい」と、それでもやっぱり微笑みを絶やさないまま、何度も謝った。

 九月の夜の冷たくない雨は強くもならず止むこともなく音を立てない弱さで降り続ける。横断歩道の手前で立ち止り別れたいと告げると「うん。分かった」とトーコは短く答え、それから信号が赤から青に替わった。横断歩道を渡りきったところで僕らは普段と同じように手を降って別れた。彼女の笑顔は最初から最後まで変わることがなくそれ以外の表情を目にすることはついに一度もなかった。ひとりになってしばらく歩くと電信柱の脇に白く小さな花を咲かせた雑草を見つけたので僕は屈んでそれを引き抜き、手の中で握りつぶしてから傍に放り投げた。手が汚れたので濡れた制服のズボンの裾で拭い、それから誰にともなく言い訳をするような気持ちで少しのあいだ泣いた。そういえば僕もトーコの前では一度も泣かなかった。
 

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