虚しさの木

 わたしは木。喋る木。歩く木。遊ぶ木。ひとの形をした木。だから転んで怪我をしたって、みんなのように血は流れなくて、甘い樹液がじわりと染み出てくる。でもその代わりに、怪我したところを放っておくと、その傷口は次第に広がり、ぽっかり空いた洞になってしまう。洞が出来たら塞がなければいけない。塞がないまま放っておくと、洞はますます大きくなって、どこからともなくやって来る、悪い虫とか鳥とかが、わたしの中で勝手に暮らし始めるから、そうなる前にきちんと埋めねばならない。わたしの洞。暗くて、虚しくて、がらんどうの洞。

 わたしは木。考える木。忘れる木。間違える木。ひとに良く似た木。洞を埋めることはなかなか難しい。洞の形はそれぞれ違っている。埋めるためには、ジグソーパズルみたいに、きちんとした形の、適切なものを詰め込まなければいけない。泥とか雪とかコンクリートを流し込み、むりやり塞ごうと試みたこともあったが、詰めた箇所から痛んでしまったので、そうすることはやめた。だからといって形が合わないものを無理やり詰め込んだら、洞はいっそう大きくなって、ますます虚しくなる。基本的には、幸せなものを詰めていくのが、正しいやり方だ。想い出とか、安心とか、愛情とか、そういうものを詰め込んでいれば、洞は大きくならない。

 わたしは木。空想する木。怯える木。注意深い木。まるでひとのような木。しかしそれでも怪我することはある。ひとと同じように生活しているので、けっこう怪我をするし、怪我をするたびに新たな洞が出来る。あたらしい洞が出来ると、わたしはその都度、埋めようとして奔走するのだけど、なかなか追いつかない。埋める途中で間違えて、また怪我をして、余計な洞を作ってしまうことも、決して少なくない。埋めなければならない洞の数は日に日に増えていく。洞が増えれば増えるほど、わたしはより多くの、想い出や安心や愛情を探して、詰め込まなければいけない。

 わたしは木。夢を見る木。失望する木。そしてまた眠る木。ひとと同じような木。来る日も来る日もわたしは洞を埋めた。洞という名の虚しさをいつも幾つも埋めた。そうするうちにわたしは、あっという間に年を取ってしまった。老木になってしまった。振り返ればわたしは、この洞たちを埋めるために、一生の大半を費やしてきた気がする。しかしそれでも洞はなくならない。普通に生きてるだけなのに、どうしてこんなに虚しくなるのだろう。わたしは何度も考えた。考えるたびに虚しさは募って、新たな洞が生まれた。わたしの洞。痛くて、悲しくて、すっからかんの洞。

 わたしは木。泣く木。笑う木。そして死にゆく木。ひとの形だった木。ある年の夏の終わりに、わたしは森の奥の、柔らかく湿った土の上に倒れて、そのまま命を落とした。それから幾つも年月を経て、わたしの身体は徐々に溶けて砕けて、土に還っていった。時間を掛けて分解されたわたしの身体からは、生前のわたしが、洞を埋めるために集め続けていた、想い出とか安心とか愛情とか、そういったものたちも溶けて流れ出し、土の一部になった。そして数十年が過ぎて行った頃に、ちょうどわたしが倒れて死んだ場所で、あたらしい木が生まれた。








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