わたしに価値はないかもしれないが

「うちのカミさんは映画女優だったんだよ」とナガイさんはいった。そうなんですか。わたしは適当に相槌を打ちつつ、ベッドに横たわるナガイさんの奥さんの、脈拍や体温をみていく。そのあいだにもナガイさんは、油の切れたゼンマイの音みたいに掠れた声で以て、しゃべり続けていた。「あまり有名にはならなかったんだけどね。いい女優だったよ。レンタルビデオの店に行ったら、カミさんが出ていた映画が何本かね、今でも見つけられるよ」喋りながらナガイさんは、しわくちゃで小さい、奥さんの右手を両手で包み込んで、大切そうに揉んでほぐしている。奥さんはもう、二ヶ月も前から目を覚ましていない。


 
 朝。仕事に出かける前に化粧をすることが嫌いだ。鏡を覗き込んで、自分の顔と向き合うことが嫌いだ。なぜならわたしは、自分がちっとも美人でないことを知っているからだ。腫れぼったい目もとや、低い鼻や、顎の大きなほくろなんかがコンプレックスだ。それでも化粧をする時には、自分の顔が少しでも美しく見えるように、努めなければならず、それが苦痛なのだ。美人じゃないくせに悪あがきをして美しく見せようとするなど、分をわきまえない、愚かな足掻きのようだと思い、惨めに感じるのだ。そして何より、こんなふうにひねくれた考え方をしてしまう自分の性根じたいが、酷く嫌だと思う。わたしは自分のことが、すごく、大嫌いだ。 
 
 化粧をしている時。ときたま脳裏を過る顔がある。中学時代に同級生だったタマミという女だ。タマミの容姿は、控えめにいってずいぶん醜かった。大柄で、肌はごつごつしており、小さな目は左右に離れていた。大型の爬虫類を彷彿とさせるみてくれの女だった。にもかかわらずタマミは、明るく、気が強く、そして自信家だった。そんな彼女を馬鹿にする者はもちろんいたのだけど、一方で彼女を慕う者も、なぜか少なくなかった。クラスメートに囲まれ、耳まで裂けるのではないかという大きな口をあけてガハハと笑う様子を、はっきり思い出せる。わたし自身はタマミと、数えるほどしか会話をしたことがなかった。わたしは彼女のことが、とても苦手だった。

「カミさんと出会ったのは大学生の時だ。一目惚れだったよ」そう言ってナガイさんは、パサパサに乾いた奥さんの白い髪を、そっと指で撫でる。奥さんが反応を示すことはない。「あの頃のカミさんは映画女優をしていて、でもそれだけで食えるほど売れてはいなかったから、週に何度か喫茶店でアルバイトしててね。おれはカミさんに会うことが目当てで、そこに通いつめたよ。付き合ってもらえた時には、あんまりうれしくて、一生分どころか、来世の分まで運を使い切っちまったんじゃないかと思ってしまったぐらいだ」ナガイさんの話に、もうわたしも、相槌を返すことをやめた。そのかわりに自分の唇の内側を、二度、三度、すこし強く噛んだ。ナガイさんはそれでも、かまわずしゃべり続ける。
「本当に、びっくりするほど綺麗だったんだ」眠っている奥さんの顔に、わたしは目をやった。骨の形がはっきり分かるぐらい痩せて、肌はしわだらけで、シミだらけで、朽ちた枯木みたいだ。すこしも綺麗じゃないと、こころの中でわたしは呟いた。このひとはもう、すこしも綺麗ではない。「人形みたいな顔立ちも、表情の作り方も、ささやくように喋るくせに妙によく通る声とか、ピンと伸びた背筋も。綺麗だった。とにかく綺麗だった」
 やめてくれませんか。
 我慢ができなくなって、わたしは口に出した。綺麗だった、綺麗だったといって、昔の話ですよね。いまの奥さんは、身体は傷んで、歳をとって、少しも、ちっとも綺麗なんかじゃないです。綺麗だから好きになったのなら、今の奥さんはナガイさんにとって、一体なんですか。

 わたしは美人ではない。うまれてから今まで、美人だった時間なんか、ほんのひとときもなかった。そしてわたしは、物心がついた頃からずっと、自分のことを無価値だと思い続けている。なぜならテレビを点けても、大人たちの話に耳を傾けても、美人には価値があって、美人から遠いものほど価値が少ないのだと、異口同音にみんなが言っていたから。
 だから中学生の頃、あのタマミという同級生の事をわたしは、理解できなかった。それまでのわたしの常識からいったら、わたしよりも更に醜く、美人でない彼女はとても価値がないので、下を向いて、申し訳なさそうに、びくびく怯えながら、陽の当たらない場所で生きていなければならないはずだった。醜く価値がないくせに、あんなふうに胸を張って、明るい表情を浮かべて、堂々と楽しそうに過ごすなんて、全くありえないことのはずだった。理解できないので、わたしは彼女を怖れた。
 

「なるほど。面白いことを言うなあ」と、ナガイさんは、気を悪くする様子もなく笑った。「お姉さんが言ったとおり、カミさんはずいぶん歳を取ったし、さすがに若い頃と同じように綺麗なわけじゃあない。もしもカミさんに出会ったばかりの頃の、学生時代のおれが、今のカミさんの姿を見たとしても、『なんだ、くたびれて、しぼんだ婆さんがいるなあ』ぐらいにしか思わないだろうね」
 甘い匂いがする。サイドテーブルに置かれている花瓶に挿された、赤い花のかおりだ。ナガイさんの奥さんが入院してきて以来、この部屋の花瓶に挿されている花は、いつも新しい。
「だけどね、お姉さん。おれは確かに、カミさんが綺麗だからという理由で一目惚れしたんだけどさ。でもそれから、何十年も一緒に過ごしていたら、もう代わりのいない、切っても切れない間柄になるだろ? そうなったらもう、こっ恥ずかしいけど、好きになった理由や愛する理由なんか、あんまり重要じゃないんだ。切っても切れなくなったら、なんで愛するか、っていうより、どう愛そうかなっていうのを考えるように、おれはなっていたよ。お姉さんの質問の答えになってるかな」

 わたしは自分のことが、ずっと、嫌いだった。価値が少なく、好きになる理由なんか見あたらないからだ。好きになる理由がないのだから、好きになったり自信を持ったりしては駄目なのだと、ずっと思っていた。
 帰宅したわたしは、鏡の前に座った。鏡の中には普段と同じように、美人ではない、野暮ったい、冴えない顔をした女の姿があった。わたしにとって、恐らく一生、切っても切れない自分の姿があった。






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