声の墓標-第2話


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 家の最寄り駅に辿り着いた時には太陽も沈んでいて、わたしはスーパーで夕飯の買い物を済ませてから自宅の方へと歩いた。この夏は野菜が酷く高い。この町の中央にそびえ立つ巨大な電波塔は、白い光でライトアップされて寝息のように規則正しく明滅を繰り返している。信号機が赤から青に変わるのを待ちながら何気なく視線を落とすと、わたしの左腕の皮膚の上に一匹の蚊を見つけた。わたしの右手は反射的にそれを叩いて潰していた。「生きる意味はない」と話していたおじいさん声がふっと脳裏を過った。

 家に帰り着くと男がノートパソコンを弄っていた。部屋の中は冷房が強く効いていてずいぶん肌寒かった。リモコンを手にとって設定温度を確かめると設定温度は二十三度だった。「夕飯は」と男はわたしに訊いた。作るから少し待っていてとわたしは答えながら、設定温度を二十六度にした。電気代のことを考え、男に文句を言ってやりたい気持ちがかすかに湧いてきたが、次の瞬間にはどうでも良いやと思い、何も言わずにおいた。

 二ヶ月ほど前からわたしの家で暮らし始めたこの男は、控えめにいってちょっと頭がおかしい。「桃から生まれた桃太郎」を自称し、「この街にある電波塔の最上階に住んでいる悪い鬼を退治することが使命」なのだと語る。電波塔の最上階ならばわたしも何度か行ったことがある。二千円の入場料は少し割高だけれど、それさえ払えば誰でも行くことができる場所だ。そこには展望台しかなく、もちろん鬼などいない。

 にもかかわらず男は、自分が桃太郎だということを頑なに信じている様子だ。日がな一日ノートパソコンに向き合ってはインターネットの世界にどっぷり入り浸り、『電波塔の鬼を退治しに行く仲間』を募り続けている。とはいえあの電波塔が鬼ヶ島でないことなど誰もが知っているから、彼の求める犬や猿や雉はいつまで経っても決して現れない。

 スーパーで買ってきた野菜と冷蔵庫の中に入っていた肉を使って、簡単な炒め物を作った。それからお味噌汁と、昨日の夜に炊いたご飯を温めたものを用意し、テーブルの上に並べた。男はわたしの用意した夕飯をあっという間にたいらげると、またノートパソコンの前に戻り、仲間探しを再開した。「いただきます」も「ごちそうさま」もなかった。わたしは自分の分を食べ終えると、空になったふたり分の食器を流し台に運んで、水と洗剤で洗った。

この作品は、8/31~9/2にかけて行われた、マリネロさんの個展のために書き下ろしました。

第3話へ続く>
 

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