金魚鉢の中へ

 今日は水曜日なので帰宅してから部屋の掃除をした。床や机の上に放置されていた雑誌とか化粧品とか酎ハイの空き缶などを片付けてから掃除機を掛けトイレや浴室も綺麗にした。掃除が済むとキッチンに立ちお米と水と炊き込みご飯の素を入れた電子ジャーのスイッチを入れてから昨日の夜に下ごしらえしておいた肉や野菜を鍋で煮始めた。それから箪笥の上に置いた丸い金魚鉢の中に餌をひとつまみぱらぱらと落とした。餌に気づいた二匹の金魚は水槽の底からふわりと浮上して水面に浮かぶ枯葉色の餌を忙しく食べ始めた。

 家にひとりで居ると子どもの頃のことを私は思い出す。私のお母さんは親であることより女であることの方に重きを置いていたので、私が小学校に上がる頃にはもう数日に一度しか帰宅しなかったし、たまに帰宅する時でも男が一緒だった。連れてくる男は数ヶ月ごとに新しくなった。新しい男に私を紹介する時お母さんは決まって「ごめんね子どもがいて」と本当に申し訳なさそうに口にしていたから、その様子を見て私は、自分が居ることでお母さんに迷惑をかけているのだ、私はお母さんにとって必要な存在ではないのだと分かった。

 それでも当時の私はお母さんに捨てられたら生きていくことが出来ないと思ったので何とかして必要としてもらえるよう色々な方法を試した。来る日も来る日もお母さんの機嫌について考えなければいけないのは凄く不自由だった。不自由だったがそれをしなければ本当に孤独になってしまうという恐怖の方が勝った。試行錯誤の末に私はお母さんが居ない時に掃除をして家の中をいつも綺麗にしておくということを覚えた。これは上手くいった。男を家に連れてきた時に家が綺麗だとお母さんは喜び私のことを褒めてくれるようになった。

 ひとに褒められることをしたり喜ばれることをすれば必要としてもらえるんだということが分かったので私は、それからというもの人に求められることを何でもするようになった。クラスで誰もやりたがらなかった委員長だってやったし宿題を忘れた子がいればコッソリ写させてあげたし早く帰りたい子が居れば放課後の掃除当番を代わりにやってあげた。中学校では部員が足りない部の大会に助っ人として出たしクラスメートが書いたラブレターを代わりに渡したし担任の先生が喜ぶからテスト勉強も頑張ったしセックスしたい男には身体だって売った。

 セックスを覚える頃になるともう出会う人だれもが私を欲しがっているように思えた。身体は他人から求められるためのいちばん有効な道具だった。これさえ使えば自分を求めるひとに不自由することはなかった。私は私を必要としてくれるひとなら誰でも良かったし、後がつかえるほどたくさんのひとに欲しがってもらえるようになったので、その中のひとりやふたりから嫌われたり失望されたりしても痛くも痒くもないと思うようになった。かつて四六時中お母さんの顔色を伺っていた頃と比較したら、この時期の私は、自由だった。誰でも良かったから凄く自由だった。たとえばちょっと思いついて当時のお母さんの男をいちどだけ寝取って捨てたすぐに捨てた時だってお母さんにはめちゃくちゃに恨まれたが何とも感じなかった。

 餌の浮かぶ水面でかぷかぷと一生懸命に口を動かす二匹の金魚を眺めながら、ああ替えが効かない相手が増えるほど一生は不自由になっていくというのに私が居ないとご飯も食べられないアンタたちはなんて不自由なんだろう! と心の中で憐れむ。二匹にはそれぞれに名前があり一匹が桃でもう一匹が林檎というのだがどちらがどちらなのか判別することが私には出来ない。判別できるのは彼らの名付け親であり今はこの部屋に居ないあの男の子だけだ。

 あの男の子と付き合いはじめた時、私はすでにお母さんを傷つけてもなんとも思わないほど自由になっていたので彼との交際もそれほど特別な意味を持っていたわけではなかった。好きだと言ってもらったから付き合い始めたけど私のことを欲しがるひとは他にもごまんといたので合わなくなればそれまでいつもそうしていたようにすぐに捨てて他の人のところに行けば良いと思っていた。古びた車で夜景の見える駐車場に連れて行ってもらったり浴衣を着て花火大会の縁日を歩き金魚を掬ってもらったりもしたがそれだって別に一緒に行くのは誰でも良かったはずだった。ねぇだってかつてのお母さんのように替えのきかない相手を求めてそれを得られないことがどれだけ惨めかを知っている私が、今さらたったひとりの男と、誰にでも欲しがられて誰とでもどこへでも行けるこの限りない自由とを天秤にかけて前者を取ることなんてありえないでしょう? キッチンの方から鍋のなかのものがコトコト煮える匂いがする。

 玄関の方から音が聞こえたので私は顔を上げる。この部屋の合鍵を持っているのはひとりだけだし今日は水曜日なので訪ねてくるのは他に誰も居ない。私は安々と嬉しい気持ちになり、ああ、また不自由になってしまったなと考えて笑った。




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