ケモノと青い月

 土曜日のわたしは恋人とデートをした。ショッピングモールに入っている映画館で海外のアニメ映画を見てから、冬用の服とシュークリームを買った。そのあとは駅の方へは向かわず、電車に乗らずに森のほとりの道を、ふたりで手をつないで、ひと駅ぶん歩いた。歩きながらわたしたちは、このごろ寒くなったね、本当に寒くなったねと、似たようなやり取りを何度か繰り返した。途中でレンタルショップに寄り、恋人が好きなバンドのDVDを借りた。恋人の家にたどり着いた時には、すっかり日は暮れていて、空を見上げると、弦を張った弓のような半月の月が出ていた。
 そのあと恋人の家で何時間かを過ごした。帰るまでのあいだ、わたしはずっとニコニコ、笑っていられたと思う。わたしがニコニコ笑っていることができれば、恋人は喜ぶ。わたしは恋人が好きで、彼に喜んで欲しいと思うから、一緒にいる時はいつもそうしている。
「来週の土曜日も会える?」と、別れ際、わたしの髪を優しく撫でながら、恋人は尋ねた。だけどわたしは首を横に振って、「ごめんなさいその日は、仕事があるから駄目だわ。日曜日にしよう」と、彼に嘘を吐いた。
 来週の土曜日の夜は満月だからだ。満月の夜には、私はあのひとに会いに行かなきゃいけない。
 
 水曜日のわたしは病院で看護師の仕事をした。患者さんの身の回りのお世話をした。お医者さんからの指示とか世間話とかに耳を傾けた。同僚たちとお昼ご飯を食べながら真面目な話や不真面目な話をした。経験の少ない後輩に仕事の仕方を教えた。
 病院にいる時。わたしはいつも下唇をちょっと引き締める。そうして凛々しい表情をするように心掛けている。だって患者さんや後輩と話す時に、もしもわたしが自信なさげな表情をしていたら、きっと彼らを不安がらせてしまうからだ。お医者さんや同僚と話す時に、もしもわたしが間の抜けた表情をしていたら、きっと彼らに心配をかけてしまうからだ。そんなふうだから、仕事を終えて病院を出る時、わたしは毎日、くたびれたなと思う。
 だけど大丈夫だ。
 だって満月の夜には、わたしはあのひとに会いに行くのだから。

 そしてまた土曜日になった。満月の夜になった。
 わたしは厚手のジャンパーを来て、ランタンを持って森へと入っていく。木々がうっそうと生い茂る森の中には外灯がひとつもない。月の明かりや星の光が届くこともなくて、わたし以外にひとの姿もない。すごく静かだから、たとえばスニーカーが落ち葉を踏む音とか、ランタンの中で炎が燃える音とか、自分の呼吸の音。そういったものがすごくはっきりと、わたしの鼓膜に跡を残していった。土の匂いや木の肌の匂いをたっぷり含んだ冷たい夜の空気が鼻腔から入ってきて、わたしの身体を満たしていくのが分かった。
 森に入ってから二十分ぐらい歩くと、頭上を覆っていた木々の葉や枝が途切れ、満月の夜空が、とても美しく見える場所がある。そこには学校のグラウンドぐらいの大きな湖がある。青い満月の煌々とした月明かりを受けると、この湖の水面は鏡のようになる。周囲の景色や満面の星空を映し出しながら、時折本当に微かな音を立てて、ゆらり、ゆらりと揺らめく。
 わたしは湖に、ゆっくり近づいて、それから鏡になった湖面を、そっと覗き込んだ。水鏡の中には、あのひとの姿がある。あのひとはわたしと同じ顔、わたしと同じ姿形をしていて、わたしがするのと同じように、こちらを見詰めてくる。けれどあのひとは、わたしが、恋人にも、職場のひとびとにも、見せたことのない表情をしている。とても悲しそうで、怒っているかのように、悔しそうに、寂しそうに、眉を潜め、肩を震わせながら何度も瞬きする。
 しばらくのあいだ、そんなあのひとと見つめ合っていると、ふいに眼下で、ポツン、と、小さな音が聞こえる。次の瞬間、湖面で波紋が立ち、そこに映っていたあのひとの姿も歪みながら、くらくらと波打つ。その様子を見て、わたしは、ようやく自分が、泣いていることに気づいて、気づいてしまってからもう、ぽろりぽろりと、ぼろぼろと、雨がふりだしたみたいに涙が止まらなくなって、声も漏れはじめた。無数に落ちた涙の数だけ波紋を立てる湖面と向き合いながらわたしは、まるで遠吠えをする狼みたいになってずっとずっと泣いた。

 その翌日。日曜日のわたしは恋人とデートをした。恋人の家の近くに、新しくできたお洒落なケーキ屋さんでチーズタルトを買って、彼の家で食べた。食べ終わると恋人はわたしの髪を、いつものように撫でた。それから人差し指で、わたしの目の下を、軽くなぞるように触った。昨日の夜にたくさん泣き、まだちょっぴり、腫れていたせいだろうか。その時の彼の指はひんやりとして、とても気持ち良く感じた。




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