海と翠

 図書室に居て本を読むのがいちばん幸せだ。夕方六時の最終下校時刻が近づくと学校中のスピーカーから校内に残った生徒たちに向け下校を促す放送が流れた。私は読んでいた文庫本の貸し出し手続きをしようか少し迷ったけど、また明日ここに来て読めば良いやと考えたので栞紐を挟んでから本棚に戻した。斜陽の差しこむ図書室の窓からグラウンドを見おろすと練習を終えた陸上部員たちが用具の片づけをしていた。図書室を後にすると下駄箱で靴を履き替え校舎の外へと出た。私はJRではなく少し離れた場所にある私鉄の駅から帰るので他の多くの生徒たちとは反対方向へ歩いた。

 駅に辿り着くとクラスメートのアヤコが自動改札機のすぐ前に立ち私を待っていた。アヤコはすらりとしていて背が高く猫のように大きな目をしている。私はアヤコとそれほど親しいつもりはないけど、彼女は何故かここで毎日私を待っている。私たちは特にこれといって会話を交わすこともなく一緒に改札を通り同じ電車に乗った。電車に乗ると入口近くに空いた座席がひとり分だけあった。他に座るひとも居ない様子だったので私は黙ってそこに腰を降ろした。アヤコは私のすぐ前に立ちつり革を掴んでいた。私の降車駅はそこから五つ先だ。辿り着くと、私は何も言わずに席を立って電車の外へと出た。

 アヤコはみんなから好かれている女の子だ。気配りが出来て見た目も可愛らしく運動や勉強も得意で、尚且つそれらを鼻に掛けるようなところが一切ないからだ。アヤコの周りには常にみんなが集まる。休み時間になると彼女の机を中心にして大きな輪ができる。アヤコはいつもにこにこ笑っている。頼みごとをされれば決してノーとは言わない。三つの部活動を掛け持ちしているがいずれも友だちに誘われたからという理由で入部したものだ。あれくらい多才な女の子であれば理不尽な妬みとか嫉みのひとつも買いそうなものだが彼女に関する悪い噂を耳にしたことはない。

 一方で私はというとアヤコとはまったく正反対の性格をしている。私はひとりで過ごすことが好きだ。私は他人に気を遣うのがとても嫌いなのだが、多くの他人は一緒に居る人間に対して多かれ少なかれ気を遣うように要求してくるのでそれが面倒なのだ。アヤコのことは別に嫌いじゃないけど特に好きでもない。私には彼女のような生き方をすることなど到底できないだろうし真似をしたいと思ったこともない。自分の周りにみんなが集まるだなんて想像しただけでも背筋がゾクゾクする。図書室に居て本を読むのがいちばん幸せだ。

 ある日突然アヤコの苗字が変わった。なんでも両親が離婚をしたらしい。朝のホームルームで出欠を取る際、担任が聞き慣れない苗字を口にし、アヤコが返事を返した。呼んだ担任はきまりが悪そうに眉をひそめていたが、応えたアヤコは普段と別段変わらない表情をしていた。休み時間になるとクラスメートがアヤコの机をぐるりと取り囲んだ。彼らは代わる代わるアヤコに言葉を掛けて彼女を慰めようとしていた。当のアヤコはあっけらかんとした様子でいつもと変わらずにこにこ笑っていた。大丈夫だよ。心配しないで。ありがとう。アヤコは彼らに対しそういった言葉を何度も口にしていた。






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