わたしを飲みこむ理想郷

 地下鉄を降りて地上に出ると空には切り傷のような細い月が出ていた。交差点の傍にある洋菓子店の前には「閉店間際につき半額」の看板が出されていた。わたしはポケットの中からスマートフォンを取り出して時間を確かめた。二十二時になる数分前だった。スマートフォンには上司からのメッセージも届いていたのだけど疲れているので見て見ぬふりをした。それから洋菓子店に入りカスタードプリンをふたつ購入した。ここから家に帰り着くまで十分は歩かなければいけない。タクシーに乗ろうかと一瞬考えたがもったいないので思いとどまった。
 
 
 高校生の頃。金魚鉢で神さまを育てるのが流行っており、わたしも育てていた。神さまの育て方はとても簡単だった。金魚鉢の中に、当時ホームセンターなどで売られていた「神さまの種」というものを入れて、あとは毎日ほんの数滴ずつ、自分の血液を垂らしてやるだけだ。すると「神さまの種」は徐々にかたちを変え、数日後には育て主をそのまま、三センチほどに縮小したような姿に成長する。これが神さまだ。

 成長した後も、神さまには毎日、欠かすことなく血液を与えなければならなかった。あるひとは指先を針で刺して、あるひとは手首を剃刀で切って血液を垂らした。自分の身体を傷つける必要があるため、この娯楽に対する批判の声も小さくはなかった。それでも大きな流行になったのには、もちろん理由がある。この神さまは、ひとびとが諦めた夢とか、叶えられなかった欲を、育て主の代わりに叶えてくれる存在だったのだ。

 たとえばレーサーになりたかったひとが作った神さまなら、ミニチュアサイズのレーシングカーやサーキットを金魚鉢の中に生み出し、レースを開催した。大恋愛に破れた男が育てた神さまなら、想い人そっくりの女を作り出して結婚式を挙げた。トップアイドルになりたかった女が育てた神さまなら、ステージから観客までぜんぶを作り出して、来る日も来る日もライブを敢行した。わたしの神さまは、泣いたり怒鳴ったりしないお母さんと、浮気をしないお父さんを作り、ニコニコ笑いながら食卓を囲んでいた。神さまは、金魚鉢の外に出ることは一切できなかったが、金魚鉢の中では全知全能の創造神だった。金魚鉢の中に作られる小さな理想郷を、多くのひとが愛した。

 だけれど流行が続く中で、この遊びの、いっそう暗い側面が露わになっていった。神さまが必要とする血液の量が、飼育日数に比例して増えていくことが分かってきたからだ。はじめの頃は毎日数滴で良かったけど、二ヶ月、三ヶ月ほど経過した神さまなら大さじ一杯分、一年以上も飼育した神さまならコップ一杯ほどの血液を、毎日欠かさず与えなければいけなかったのだ。もしも血液を一日でも与えなかった場合や、量が足りなかった場合、金魚鉢の中の神さまと理想郷は、泡のようにあっけなく壊れて消えてしまう。
 
 なので流行の始まりから一年ほどが経つと、必要な血液を与えられなくなり、神さまの飼育をやめてしまうひとも当然たくさんいた。でも一部の、神さまに強く傾倒していたひとは、どんなに多くの血液を取られるようになっても、自分だけのちっぽけな理想郷を手放すことはなかった。日々必要とする血液は、コップ数杯分、ペットボトル数本分と、どんどん増え続けた。この時期になると、神さまに血液を与えすぎて死んだひとのニュースが連日テレビで報じられるようになった。そこまでいかなくても、血を出しすぎて気を失い、救急車で運ばれるひとはもっとたくさんいた。わたしもその中のひとりだった。

 病院で目を覚ました時のことは今でも覚えている。最初に感じたのは病院特有の消毒の匂いだ。視界はぼやけていて、身体の自由がまったく効かなかった。腕に点滴が繋がっているのを見て、ああ、わたしも病院に運ばれたんだなあと、ぼんやり理解した。それから気づいたのは、左手が、何か柔らかくて温かいものに触れていたことだ。なんとか視線を動かし、左側を見ると、そこにはお母さんが居て、わたしの手を握り、下唇をぎゅっと噛みながら静かに泣いていた。その様子になぜだか安心して、わたしは目を瞑り、またしばらく眠った。
 
 
 家に帰り着くとリビングの明かりは既に消えていた。時間は二十二時を数分過ぎていた。おそらくお母さんはもう寝ているだろう。テーブルの上にはメモが残っており「冷蔵庫の中にプリンが入っているので、もしよかったら食べてくださいね」と癖のある文字で書かれていた。冷蔵庫を開けてみると、さきほど私が洋菓子店で買ったものと全く同じプリンがひとつ入っていて、わたしは思わず頬を緩めてしまった。

あとがき

まるで太陽に近づくかのように、何かのファンになる。そうすることで勇気や元気や暖かさを与えてもらえるけど、だからといって近づきすぎれば身体を焼かれてしまう。それでもいずれは夜がやってきて、太陽なしでも歩かなければいけない時間がくる――。そんなお話を聞いて、書かせていただきました。

2018/12/13/辺川銀

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