ある悪人について

 

 変な時間に目を覚ましてしまった。窓の外は暗い。何の音もしない。最近あまり寝付きが良くないのでドラッグストアで買った睡眠改善薬を飲んでからベッドに入ったのに期待していた効果はどうやら得られていない。頭がぼぅっとして気怠さばかりがある。今日も仕事があるのでもあともう少し眠って置かなければ。そう考えながらもあたしは枕元に置いておいたスマートフォンに手を伸ばしてしまう。インターネットのニュースサイトを開いて眺めてしまう。
 
 駅で盗撮をした男が逮捕されたという記事がニュースサイトには掲載されていた。二十代の会社員だという犯人の男は、小型のカメラを使い、エスカレーターで前に立っていた女性のスカートの中を撮影していたところ、傍に居たひとに気づかれ、取り押さえられてお縄になったそうだ。男は数年間にわたり同様の行為を繰り返していたとみられ、「初めは軽い気持ちだったが、いつの間にかやめられなくなってしまった」と話しているらしい。ニュースサイトの中には読者がコメントを書き込む欄があり、「厳罰に処すべき」「性犯罪者は更生できない」「最初の一回をやった時点で許されない」「犯人は人生終了ですね」など、男に向けた非難と軽蔑と嘲笑で溢れかえっていた。その言われようときたら、あたしの知っている彼の人柄とはぜんぜん符合せず、まるで知らないひとについて書かれているようだなと感じた。
 
 
 あたしたちの知る彼は明るい男だった。
 ひと付き合いがよく、職場の飲み会や社員旅行にはいつも参加していた。仕事においては抜群の成績というわけではなかったけど、要所を押さえる器用さと、適度に手を抜く要領の良さとを兼ね備えて、堅実な成果を収め続けていた。はつらつとして、人気者で、影のない人物。それが彼に対する周囲の評価だった。
 
 あたしの知る彼は優しい男だった。
 彼がはじめてあたしに対して「好きだ」と言ったのは入社してから半年ほどが経った頃だった。あたしと彼との間には肉体関係があった。あたしがそれを望んだ時に、彼はあたしを抱いた。でもあたしたちは恋人同士ではなかった。何度もふたりで旅行にだって出掛けた。誕生日やクリスマスにはお互いにプレゼントを送りあった。それでもあたしたちは恋人同士ではなかった。恋人同士になることを彼は望んでいた。結婚したり家庭を持つこともきっと望んでいた。あたしはそれを分かっていながら曖昧な関係をずっと続けてきた。そんなあたしに彼はいちども不平を言わなかった。彼が不平を言えないこともあたしは理解していた。
 
 あたしの目に映る彼は繊細な男だった。
 田舎には年老いた母親がたったひとりで暮らしているのだという。「おれが大学に合格した時。おふくろはすごく喜んでくれたよ」「うちの会社が新商品を出すたび、おふくろはそれを買って、写真を撮ってメールで送ってくるんだ」「君が地元に遊びに来てくれたら、おふくろだってどんなに喜ぶだろう」そうやって母親のことを話す時、彼はあたしと視線を合わせなかった。
 オフィスでの彼は常に飄々と振る舞っていたけど、周囲への気配りをいつも忘れなかった。誰かがミスをした時とか、叱られている時、繁忙期で忙しい時など、周囲の空気がピリピリしているときほど、彼は明るく冗談を飛ばしていた。彼が軽口を叩く時、傍で必ず誰かが救われていたことを、あたしは知っている。
 他者が自分に望んでいることを正確に察知し、その通りに実行することが彼の特技だった。「君はどこに行きたい?」「君は何を食べたい?」「君はどうしたい?」が彼の口癖だった。或いはそれすら言葉にすることなく、あたしの希望を先回りして叶え続けてきた。一方で、彼が自身の希望をはっきり口にしたのは、覚えている限り、あたしにはじめて「好きだ」と言った時ぐらいだった気がする。
 
 
 真っ暗な部屋の中にスマートフォンの明かりだけが灯っている。あたしはベッドに横たったままニュースサイトに寄せられたコメントを読み続けた。盗撮をして逮捕された彼に向けて、彼のことを知らないひとたちが書き残していった数々の非難は、見てみればどれも似たり寄ったりというか、どこかで見たような言葉ばかりだった。入眠前に飲んだ薬の影響で頭がぼぅっとしていたせいもあってか、画面上に並ぶ文字たちが段々と意味を持たない記号のようにだんだんと思えてきて、このままずっと眺め続けていれば、やがて眠気がやってくる気さえしてきた。
 
 そんな時に、あるひとつのコメントがあたしの目にとまった。「自分も盗撮をされたことがあります」という一文から始まるそのコメントの主は、被害に遭って以降しばらくのあいだ電車やバスなどを利用することが出来なくなったという。それから数年が経過した今でもスカートを履いて外出することは一切ないそうだが、にもかかわらず知らない男性とすれ違うたび、頭のどこかで「盗撮されているのではないか」と当時の恐怖が蘇るのだそうだ。また、そうして無実のひとを疑ってしまうことにも罪悪感を感じ、今も苦しみが続いているのだという。
 
 いつの間にか窓の外が明るくなっていた。鳥のさえずる声が耳に届き始めた。あたしは彼に対してどんな気持ちを抱くのが適切なのだろうか? あたしは、あたしの知っている彼を嫌うことが、多分できないだろう。だけど、あたしが知らなかった彼を許すことも、できる自信がない。それでも朝はこうして来てしまうし、もう少ししたらベッドを出て、身だしなみを整え、普段どおりに出勤しないといけない。心の置きどころがまるで分からないが、だからこそ分かっていることに縋り付いて、努めて普段どおりに仕事をこなすだろう。

あとがき

親しいひとが悪いことをしてしまった時、そのひとのことをどういうふうに思えば良いのでしょう。そのひとが犯した間違えをどういうふうに受け止めて、歩いていけば良いのでしょう。どんな捉え方をしようと、明日は等しくやってくるのだけれど。

2019/05/11/辺川銀

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