あなたが神さまになっても

 兄は神さまだ。僕の兄は数年前から神さまを自称するようになった。
 
 兄は子どもの頃から僕の知らないものごとをたくさん知っていた。テレビゲームの遊び方や面白いマンガやカブトムシの採り方を僕に教えてくれた。友だちだって多かったし女の子にもモテた。大人になってからもスイスイ出世をしたし自分で会社を経営した時期もあった。そんな兄が数年前から神さまを自称するようになった。僕はあんまり頭が良くないので兄のいう神さまというのがどんなものなのかを理解することができない。でもあの立派な兄が自分のことを神さまだというなら、実際に兄は神さまなのだろう。
 
 
 子どもの頃。何でもできてみんなに慕われる兄のことを僕はいつも誇らしく思っていた。兄の周りにはいろいろなひとが自然と集まった。どんなひとでも兄は受け容れた。強い子も、弱い子も、兄の傍では等しく笑えていた。
 
 けれど大人になるにつれて兄を取り巻く人間関係は徐々に変容した。頭の良いひと。お金持ちのひと。特別な才能のあるひと。そんなひとたちばかりが兄の周りに集まるようになった。僕のように何も持っていない人間が兄の傍にいることは難しくなってしまった。決して兄自身が変わったわけではないが、小難しい研究とか、よくわからない芸術とか、お金儲けとか、そういうことしているひとたちが、こぞって兄のことを独り占めしようとしたのだ。いつしか兄の傍は、僕にとって安心できる場所ではなくなってしまっていた。「兄と比べて劣っている」と評価されるたびに、兄が少しずつ遠くのひとになっていくように感じた。
 
 
 毎週日曜日になると僕は兄のもとを訪ねる。神さまへの礼拝は日曜日にするものだと兄がいうからだ。
 
 兄がいま暮らしている建物はとても厳かだ。窓には格子が設けられているし、扉は重たく開閉すると玄関ホールにに低い音が響く。兄によるとこの建物は神殿なのだそうだ。神殿内に足を踏み入れるとふだん僕らが暮らしている浮世から切り離されたもうひとつの世界に居るような錯覚を覚える。通路の天井には無数の風船やシャボン玉が常にふわふわと行き交う。ホログラフで映し出された妖精やユニコーンや優しい顔をした竜たちに会えるエリアもある。あるフロアでは犬や猫や人間の子どもを模したロボットが歩き回っている。
 
 この神殿は暮らしているひとびとも外とは違っている。目には見えない対戦相手のプロレスに闘志を燃やす半裸の中年男性。ナポレオンの生まれ変わりだという思春期の女性。宇宙人。売れっ子俳優の恋人。外国の政府から任を受けたスパイ。本当に様々なひとびとを見かけることができる。そんな彼らの中でも僕の兄はそれなりに知られた存在らしく「神さまの弟。こんにちは!」と声を掛けてくれるひとも少なくない。彼らに会釈を返しながら、僕は神殿の最深部にいる兄のところへ向かう。 
  
 
 神さまを名乗り始めた時。兄は会社をひとつ経営していた。
 
 学生時代からつきあいがあるのだという共同経営者の男とふたりで創業したその会社は、数年間でそこそこ大きくなり、テレビでコマーシャルも見かけるほどになった。そのオフィスに僕はいちどだけ行ったことがある。そこでは似通った服装、似通った表情をした大勢の社員が、まるで機械の一部のようにパソコンのキーボードを叩いて過ごしていた。僕はそれを見て嫌な気分になったが、共同経営者の男は「これがいちばん効率のいい仕事のやり方なんだよ。おれと君のお兄さんがふたりで考えたんだ。君のお兄さんは、おれにとって本当に重要なパートナーなんだよ」と得意げに語っていた。
 
 だけれど兄が神さまを名乗り始めた時。共同経営者の男は兄を罵った。昼間のオフィスに僕を呼び出し「君のお兄さんは頭がおかしくなった」というようなことを話した。「もう会社には必要ないから、然るべき場所に入院させるべき」なのだと言った。
 
 
 神殿の最深部には開けた空間があり森の匂いがする。湿った土と植物の匂いがする。どこからか聞こえてくる鳥の鳴き声はスピーカーから流れるものだろうか。それとも実際の鳥をこの空間のどこかで飼育しているのだろうか。ここは確かに屋内のはずだが天井から降り注ぐ光はまるで朝の日差しみたいに優しく温かい。本物そっくりの鹿や猫や狐があたりを歩いている。そして大勢のひとが思い思いの時間をここで過ごしている。輪になって歌を謡うひとびと。ハンモックに身体を預けて本を捲るひと。日本語ではない言葉を喋るひと。縫い物をするひと。何もしていないひと。同じに見えるひとは誰ひとりとして居ない。ただひとつだけ共通しているのは他人の在り方や過ごし方を非難しないことだ。そして彼らの中心には兄の姿がある。神様になった兄は千姿万態のひとびとに囲まれて穏やかに笑っている。
 
 この空間をはじめて訪れた時。僕は少しだけ恐ろしいと思った。自分と似ているひとがどこにもいないからだ。だけれど今では居心地が良いと感じる。この場所では誰かに似せなくても咎められないからだ。僕の姿を見つけた兄が大きく手を振った。

あとがき

このお話のモデルになってくださった方コメントをいただきました。

十数年前から変な名前をした仕事の人が増えてきた、ハイパーメディアクリエーターとかそういう名前だっけ、色々あったな。

なんてことを辺川さんのショートショートを読みながら思い出した。

僕は、その変な名前の仕事の人のことを何をするかも分からず、奇異なものだとのだと考えていた。でも、実際は既存の仕事では表現出来ない仕事をする人だったんだなと感じている。

その人たちは既存の人間関係の上には、いない。上司と部下、後輩と先輩…便利だから使ってるだけだ。年齢や性別、地位なんて関係なしに『君と僕』の関係を作る。今はそんな時代かもしれない。

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