傘が刺さる距離にて

 室内干ししたシャツや下着の匂いが鼻について不愉快だし雨が降り続いているせいでこめかみのあたりに不快な痛みがある。それでもわたしはノートパソコンのキーボードを叩いて明日が締切のレポートをカチャカチャと書き進めていけなければいけない。間に合わなければ今年度末に卒業することができなくなってしまう。留年するなら来年度からの仕送りは出せないと両親からは釘を刺されている。もっともなんとか卒業できたところで就職活動だって上手くいっていないからその後どのように生きていくのかの見通しも立っていないのだが。ドアの向こうのキッチンからはトントントントンと野菜を刻む規則的な音が聞こえてくる。今日は木曜日なので仕事帰りのサキカさんが夕食の支度をしに寄ってくれている。家の何処かに頭痛薬はあっただろうかとわたしは考えながら画面の上に並べた文字を幾度も書いては消す。
 
 
 わたしとサキカさんはセックスフレンドだった。インターネットを通じてわたしたちは出会った。当時十九歳で上京二年目だったわたしは大学はおろかこの都会での人間関係を作ること自体がほとんどできずにいた。一方のサキカさんは五つ歳上だが仕事をしておらず一緒に暮らしている家族との折り合いも悪いということで気づけばわたしの家にいつも泊まっていた。そのくせサキカさんは「私のような大人になってはだめよ」だとか「私のような人間に入れ込みすぎてはいけない」と口癖のように言った。確かにサキカさんは世間一般の尺度で測れば決してきちんとした大人ではなかったかもしれない。それでも彼女の傍はわたしにとって過ごしやすかった。サキカさんは素敵な映画や刺激的な音楽や気持ち良くなるための方法を幾つも幾つもわたしに教えてくれた。彼女がわたしの恋人になることはなかった。「私のような大人になったらだめだよ」とか「私のような人間に入れ込みすぎてはだめだよ」というのが彼女の口癖だった。
 
 その年の夏休み等は死ぬほど素晴らしかった。ふたりともお金の余裕はあまりなかったので通気性の悪いわたしの部屋に籠もってばかりいた。たまにすっぴんのまま手を繋いで近所のスーパーへ行き安いお酒や半額シールの惣菜なんかを買った。部屋の中はいつも散らかっていたし安くて身体に悪いものばかり食べていたけれど気にはならなかった。ノートパソコンの液晶画面に映画を流しながら気づけば何時間も眠ったりしていた。将来のことを語り合ったりすればお互い不安になった。脳がふやけそうなセックスに身も心も沈めた。甘くて生ぬるい沼の底にいるような日々をだらだらと過ごした。それでもわたしたちは恋人同士ではなかった。
 
「好きなひとができたからこういうことは今日で最後にしよう」とサキカさんに言われたのことだった。「こういうこと」とはもちろんセックスのことだ。それを言われた時わたしは裸で汗だくで彼女の発言に対して嫌だと言える権限を持っていなかった。なぜならわたしは彼女の恋人でも何でもなかったからだ。以降サキカさんはわたしのことを抱かなくなるどころかこの身体に指の一本も触れなくなってしまった。
 
「好きなひと」ができてからのサキカさんはわたしとの関係だけでなく色々な面で変化を遂げていった。小さな会社の事務員として働き始めたし折り合いの悪いという家族のもとを離れてひとり暮らしも始めた。いずれもわたしとセックスフレンドだった時期には起こらなかった変化だ。サキカさんをこんなにも変容させた「すきなひと」とはどんな人物だろう。どんな顔でどんな声でどんな背格好でどんな日常を過ごしているのだろうか。男なのだろうか女なのだろうか。わたしは少しも知らないし訊ねたこともない。
 
 
 気拭けば雨が強さを増しており水滴がばちばちと窓のガラスを叩く。レポートの執筆はなかなか順調に進まずわたしの頭痛も酷くなるばかりだ。やはり頭痛薬を探そうと思い立つと同時に部屋の扉が開いてサキカさんが出来たての夕飯を運び込んできた。白いごはん、お味噌汁、生野菜のサラダ、手捏ねのハンバーグが、それぞれふたり分だ。もうセックスをすることはなくなったにもかかわらず未だにサキカさんはこうしてわたしに会いにやって来る。毎週木曜日には仕事終わりにこうしてわたしの家に立ち寄り夕飯の支度をする。いつかの夏にはふたりとも料理なんかぜんぜんせずスーパーのお惣菜ばかり買って食べていたのに今の彼女はずいぶん凝った手料理を作ってわたしに披露する。まるで最初から普通の友だちだったかのように。過去にしたセックスの有無なんて大したことではないといわんばかりに振る舞う。わたしはパソコンを閉じてサキカさんと向き合い食事に箸をつける。どれを食べても結構美味しいから、どんな気持ちになれば良いのかいっそう分からなくなる。

タイトルとURLをコピーしました