アルバートは老いない。
アルバートは死なない。
アルバートには無限の時間がある。
その朝アルバートずいぶん早く書店にたどり着いた。午前十時の開店までは二時間以上もあった。もて余した時間をアルバートは電線の上で休む鳥たちや駅のへ歩いていくひとびとの様子を眺めながら過ごした。書店のシャッターが開くとアルバートはレジへ行き取り寄せておいたハードカバーの小説を受け取って支払いを済ませた。
それからアルバートは電車に乗って病院へ向かった。病院にたどり着くと入院中の友人に先ほど買った小説を届けた。小説を受け取った友人は大きな目を細めて大変喜んでいた。「これを読むのをずっと楽しみにしていたんだ」と彼女が微笑んだこの時点で時計の針は正午を示していた。日没まではあと六時間ほどあった。次の日没を迎えると彼女は死んでしまう。彼女はまだ二十歳にも満たないが翌日の朝を迎えることはない。そういう病気に彼女は罹っていた。
アルバートの見た目は普通の人間とまったく見分けがつかない。しかしアルバートの身体は機械でできている。だからアルバートは老いることも死ぬこともなくずっと長い時間を生きることができた。アルバートは自分の年齢が幾つなのかを知らない。あまりに長い時間を生きてきたからだ。アルバートは自分がいつどんな目的で誰によって生み出されたのかを知らない。だが親しい人間が死んでいくたびにアルバートは情けないほど泣いた。
「自分はどうして不死身なのだろうと君は悩んでいたよね」とハードカバーの小説を胸に抱きながら友人はアルバートに語りかけた。「この病気に罹ってからあたしも同じように何度も悩んだよ。どうして自分がって。どうして自分はひとより長く生きられないんだろうって。この際だから正直に言うけど死なない君のことを妬んだりもしていた。だけれど最後の一年ぐらいはね。そういうことを考える場面がめっきり減ったんだよ」小説を抱く両手に彼女はぎゅっと少しの力を込めた。
「なぜならここに本が一冊あるだろ。君が今さっき買ってきてくれた本だ。これはあたしが中学生の頃から好きだった作家の新作小説なんだ。十年近く続いているシリーズもので今日発売されたこれが完結編なんだ。君が帰ったらあたしはこれを読み始める。読み終えるまでにはどんなに急いでも二時間ぐらいかかる。できれば急がずゆっくり読みたいから四時間ぐらいは時間を取りたいね。もちろん君と今こうして喋っている時間だってかけがえがないんだ。君の都合が許すのだったらあともう少し話したいんだ。するとどうだろう。どうして自分がこんな病気に? なんてことを考えている時間があたしにあるだろうか。あたしが君に伝えたいのはそういうことなんだ。あたしは君の何十分の一か、或いは何百分の一しか生きていないのだけど、今は君よりも死に近いところにいるんだ」
病院をあとにするとアルバートは電車に乗らず歩いて住処を目指した。電車に乗れば三十分ほどでたどり着ける道のりを数時間かけて自分の足で歩いた。幾つも寄り道をしながらゆっくり歩いて帰った。ゲームセンターに立ち寄って初対面の相手と何度か対戦した。駅前の広場でチェロを弾いていた老人の帽子に紙幣を一枚入れた。通い慣れた美術館で三十分ほど過ごした。住宅街を通り過ぎた際には人懐こい野良猫にも出会った。公園では色鮮やかなアゲハチョウも見つけることができた。アルバートには無限の時間がある。
アルバートが住処にたどり着く頃にはもう日没が近づいており空の西側が真っ赤に染まっていた。さきほど病院で友人に手渡したあの小説が面白ければ良い、彼女の期待に添うものであれば良いとアルバートは思った。
あとがき
「自分は何のために生まれたのか」「何故ここにいるのか」「どうして自分の巡り合わせはこんなふうなのか」そういうふうに考えることは生きていくなかですごく多いのだけど、意外と答えを出さなくても、前に進める場面はあるかもしれません。
2011年に書いた廃墟のアルバートという作品を好きだと言ってもらったので、今回はそのスピンオフのような形で書かせていただきました。
2019/06/20/辺川銀