ひとり残らず僕らは病人だ

Illustration by Igarashi Arisa

 仕事終えて家に帰ると一緒に暮らしている弟がシチューを用意していた。冷蔵庫に残っていた材料を使ってひとりで作ったらしい。無理をしなくても良いのにと僕が言うと弟は少し視線を落として笑った。弟の料理は僕が作るものよりもよっぽど味が良い。
 弟の背中には羽根が生えている。白鳥のように白くて綺麗な羽根だ。一方で彼の骨は普通の人間に比べて非常に脆くて弱く長時間立っていたり長い距離を歩いたりすることが出来ない。これらは弟が患っている天使病という病気の症状だ。この病気が発症してからというもの彼は病院に行く時を除いてこの家の中から一歩も出ていない。

 天使病の患者が最初に見つかったのは十年ほど前だ。以来、患者の数は爆発的に増え続けているが原因や治療法などは一切分かっていない。羽根の生えた人間は訓練次第で空を飛べるようにもなると言われているのだが実際には患者たちが家の外に姿を見せることは滅多になく多くは僕の弟のように家から出てこない。何故ならこの病気は人間から人間に空気感染すると噂されており世間のひとびとは患者を酷く忌み嫌っているからだ。けれども僕は天使病を患った弟と何年も一緒に暮らしているにもかかわらず背中から羽根が生えてきそうな気配は現状まったくない。 
 
 更に五年が経った。天使病は依然として拡大を続けており患者の数は五年前と比べて百倍とも二百倍とも言われるようになった。原因や治療法は未だに一切解明されておらず一度発症した患者が元に戻ったという例も報告されていない。一方でそれまで世間の目を避けるようにして生きてきた患者たちは患者会を結成し世間からの偏見に対して声を上げ始めた。それに伴い訓練を積み空を飛んで移動する患者の姿も町中でしばしば目にするようになった。空気感染の噂が払拭されていない中で患者たちが堂々と外に出ることについては批判の声も随分多くあったが、彼等の姿は同時に、患者たちやその家族に対して大きな勇気を与えた。僕の弟も人目に付きにくい夜中の時間を狙って空を飛ぶ練習を行うようになった。

 更に月日が過ぎると患者たちに対する差別や批判の声はずいぶん少なくなり町を歩けば空を飛ぶひとびとの姿を当たり前のように目にするようになった。むしろ車や電車といった従来の移動手段に頼る必要のない患者達に対して患者ではないひとびとたちが羨望の眼差しを送る場面さえ見受けられるようになった。患者の数は右肩上がりに増え続けていたが新たに発症する患者たちのあいだに悲壮感は少なく、学者たちに至ってはこの減少は病気などではなく人類の新しい進化なのだという説を展開し始めた。病気を苦にして長年引きこもっていた僕の弟も今では当たり前に外出するようになり企業に勤めて仕事をするようにさえなった。

 天使病の最初の患者が見つかってから二十年が過ぎた。統計によると人間全体の七割は背中に羽根を持っている。この症状を病気だという人間はもうほとんど居らずむしろ羽根のない人間の方が少数派になった。それに伴い社会全体の仕組みも羽根の生えた人間に合わせて姿を変えていった。多くの衣類には腕や首だけでなく羽根を通すための穴が開けられるようになり小学校では空の飛び方の授業が必修になった。電車や自動車といった従来の交通手段は羽根のある人間にとっては不要なので随分数を減らした。羽根のない子どもが羽根のある子どもたちにいじめられるという出来事がしばしば報じられ羽根のない人間を社会的弱者として保護すべきという声が上がるようになった。

 仕事を終えて家に帰る途中。空を見上げると部活帰りの学生たちが翼を広げて頭上を通り過ぎていった。僕の背中には未だに羽根がない。生きた年数分だけ年老いたことを除けば僕自信は以前と少しも変わっていないのだが、かつてのように暮らすことがすっかり難しくなってしまったように感じる。
 家に帰り着くと僕は台所に立ち冷蔵庫の中にあるものを使ってシチューを作り始めた。この頃少し料理の腕が上がったような気がする。もう二時間もすれば弟も家に帰ってくるだろう。
 

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