わたしはシロバナさんとふたりで暮らしている。田舎の町の片隅にある煉瓦造りの小さな家に住まわせてもらっている。シロバナさんは七十年以上生きているおばあさんだ。彼女はあまり視力が良くないので本や新聞を読む時には長い時間を掛ける。小さな文字はわたしが声に出して読んであげることも多い。シロバナさんはお菓子を作ることが得意だ。彼女の作るクッキーはびっくりするほど美味しい。わたしがこの家にやってきてシロバナさんと暮らし始めてからそろそろ一年過ぎる。普段わたしはシロバナさんのことを、シロバナさん、ではなく、おばあちゃん、と呼ぶ。なぜならシロバナさんはわたしのことを、血の繋がった自分の孫だと思っているからだ。
あのひとがシロバナさんと出会ったのは今から五十年ほど前のことだという。あのひとは腕の良い人形作家だった。機械仕掛けのピエロだとか言葉をしゃべるパペットなど、さまざまな外見や仕掛けを持った人形を作り出すことが出来る人物だった。あのひとの長い人生の中で、シロバナさんと関わりのあった期間というのは、結婚に至らない多くの男女がそうであるように、ほんの僅かな時間に過ぎなかった。けれどもその時間は、その後の彼の生き方を根っこの部分から大きく変えてしまった。
「シロバナは僕にとって女神と同じだった。彼女は僕がこれまでに見たどんな人物よりも気高く美しかった」
そう口にするほどあのひとはシロバナさんに深く心酔していた。もはや信仰といってもいいぐらいに。だからシロバナさんがあのひとの傍から去っていったあと、あのひとはまるで偶像を彫る僧のように数十年もの歳月を費やし、まだ二十代だった当時のシロバナさんとまったく同じ姿形の、生きた人形を作り出したのだ。シロバナさんの模造品、代替品としてわたしは生まれたのだ。
既に老齢に差し掛かっていたあのひとは人生を賭して作り上げたわたしの完成を大いに喜んだ。けれどそれが失望に変わるまでに時間は掛からなかった。姿形がどれだけ似通っていようと、わたしは所詮まがいものでしかなく、彼の求める生身のシロバナさんとは違っていたからだ。数十年を掛けてわたしという存在を生み出し、あのひとはようやくそれに気づいたのだ。なのでわたしは彼に捨てられた。
あのひとはシロバナさんに対する執心からわたしを作り出した。つまりシロバナさんが存在しなければわたしもこの世に生まれなかったのだ。そういう意味でシロバナさんは、わたしにとって親とまではいかないけど、それに類する存在なのだと思う。あのひとに捨てられ、放り出されたわたしは、特に行くあてなどもなくて、しばらくのあいだ途方に暮れていたが、シロバナさんに会ってみたい、どんな人物なのかをこの目で確かめたいという思いがいつの間にやらわたしの中に生まれ、日に日に大きくなった。だからわたしはそれから数年間、シロバナさんを探して各地を歩き回った。あのひとが盲信したシロバナさんではなく、時の流れと一緒に正しく年を取った、現実の女性としてのシロバナさんを探した。
シロバナさんが結婚をしたのは、彼女があのひとの傍を離れてから数年後のことだ。やがて息子を授かり、さらに二十年が過ぎると、息子夫婦の間に孫娘が生まれた。だけれどある時、息子夫婦は商売に失敗して巨大な借金を作り、孫娘を連れてシロバナさん夫婦の前から姿を消してしまった。十年前にシロバナさんの旦那さんが亡くなった時にも息子夫婦は姿を表すことなかった。それからしばらくシロバナさんはひとりぼっちで暮らしていたのだけど、そこにわたしがふらりと現われた。若いころのシロバナさんを模して作られたわたしの姿を見て、彼女はわたしのことを、息子夫婦に連れられて居なくなった孫娘だと思い込んでしまった。そしてわたしはその勘違いを訂正することなく、彼女のことをおばあちゃんと呼んだ。それからというもの、わたしと彼女は一緒に暮らしている。
晴れた日の午後にシロバナさんと台所に立った。クッキーの作り方を彼女に教えてもらった。シロバナさんと暮らし始めるまで、わたしは料理というものを一切したことがなかった。だから彼女にお菓子作りを教わることはわたしにとって大きな楽しみだ。わたしの焼いたクッキーは少し甘すぎたが、シロバナさんはそれでも美味しいと言ってくれた。ふたりで残さず食べた。
わたしを作り、そして捨てたあのひとは今なにをしているだろうと私は考える。あのひとはシロバナさんのことを、女神のように崇めていたけれども、シロバナさんがこの五十年間、どのように生き、何を見聞きし、何を感じてきたのか、あのひとはきっと少しも知らないだろう。こうして年を取り、家族を失いながらも、町の片隅で静かに暮らしていることをきっと知らないだろう。
「あなたが来てくれて良かった」
クッキーを食べ終えると、シロバナさんはそう言い、目元に深い皺を刻んで笑った。