どうかどうかあなたはお幸せに

 サカモトさんが不幸になったらしいという噂をひとづてに耳に挟んだからわたしはひとりで電車に乗って港の町へと来た。着いた時にはもう日が暮れかけており雲のない空は薄い紫色をしていた。港の町は有名な観光地なので中心部にはささやかな遊園地があり、そこにある巨大な観覧車は花火のようにイルミネーションを賑やかに点滅させながらゆっくりと回転しており、まるでこの町全体のエンジンとか動力部分みたいだと思った。あたりは賑わっていて家族連れの姿もあったが、多く居たのは若いカップルだった。わたしは前にいちどだけサカモトさんと一緒にここに来たことがあるのでそのときのことを思い出しながら歩いた。サカモトさんは不幸になったらしい。

 サカモトさんはわたしの恋人だった。もうだいぶ前のことになるけどサカモトさんはわたしの恋人だった。少し年上だった。背が高く手足は長く細くだいたい何の話をしている時でも自信なさげな顔をして笑うひとだった。情けなさと儚さが半々ぐらいで混ざっていたような気がする。ちょっと強く息を吹きかければ簡単に跳んで消えてしまいそうな雰囲気を持った男のひとだった。決して口数の多いひとではなかったけど、その代りサカモトさんと居るときのわたしは、普段よりたくさん気持ちよく喋ることが出来きた。サカモトさんは柑橘系の香水をつけていることが多かったが、つけてないときには煙草の匂いがした。サカモトさんはわたしの前で煙草を吸うことはなかった。煙草を吸っている姿を見たことはなかったが時々かすかに煙草の匂いがした。

 サカモトさんはわたしの恋人だった。けれどある日突然わたしの恋人を辞めた。サカモトさんはずっと長いあいだわたしに隠し事をしていたということが分かった。サカモトさんには恋人のわたし以外にも好きな女が居たのだというのが隠し事の内容だった。そしてそのひとと一緒に暮らすことにしたからという理由で、わたしの恋人を辞めた。サカモトさんはわたしの前で煙草を吸うことがなかったのに香水をつけていないときかすかに煙草の匂いがした。捨てられたわたしはサカモトさんのことを恨んだ。報いを受けろ、絶対許さないと、毎日毎晩サカモトさんが不幸になるように呪った。

 サカモトさんが不幸になったらしいという噂をひとづてに耳に挟んだからわたしはひとりで電車に乗って港の町へと来た。着いた時には夕方だったので空はすぐに暗くなり町の灯りと観覧車のイルミネーションが映えた。日がすっかり暮れると家族連れの姿は減りカップルばかりになった。だいたいのカップルは幸せそうに見えた。わたしは前にいちどだけサカモトさんと一緒にここに来たことがあるのでそのときのことを思い出しながら歩いた。あの日のサカモトさんは柑橘系の香水をつけていたから煙草の匂いがすることもなかった。わたしを捨ててずいぶん時間が経ったが、サカモトさんは不幸になったらしい。
 歩き疲れたので錆びの匂いがする赤い柵の手すりにもたれ掛り水面に映る揺れる明かりを眺めた。サカモトさんが不幸になったと聞いてわたしは悲しいと思った。彼の不幸をあんなに望んだというのに、サカモトさんが不幸になったと聞いてわたしは悲しかった。もうこれっぽちも好きでも何でもないけどそれでも悲しかった。サカモトさんは不幸になる方を選んだのだ。わたしと一緒に居ることより、サカモトさんは不幸になる方を選んだ。あのときのわたしには価値がなかったのだと思った。あのときのわたしは、不幸になることよりももっと価値がなかったのだと思った。時計を見ると終電が近い時間になっていたけどサカモトさんが不幸になったと聞いたのでわたしは帰りたくなかった。 ああもうわたしは無価値でゴミクズみたいだ。






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